1973年11月25日 岩国教会週報
「先週(永眠者記念礼拝)説教より」
コリント第一15:55-58、黙示録14:13
(岩国教会牧師8年目、健作さん40歳)
主にあって死ぬ人はさいわいである…そのわざは彼らについてゆく。(黙示録14:13)
今日、記念している召された者の中には、ただ幼な子としてだけこの世に生を受け、そのまま去っていった者もいます。その存在そのものが、なお神の器として用いられていることを信じることは、特に幼な子を憶えるとき、私たちにとって最も切実な信仰の一つでありましょう。成した業(わざ)によってではなく、その死をも含めた存在そのものが、抜き難いものとして私たちに迫ってくることはないでしょうか。それは過去を振り返る単なる回想ではなく、その方の存在が今なお神の御手のうちで、私たちの人生に新たな転換を開くような経験を私たちにもたらしてはいないでしょうか。「主にある死」は、イエスの十字架を証しする死、その人の生涯全体が、ある人(他者)のためであるような死です。また死を通してはじめて、自分の存在の意味がわかってくるような出来事があるとすれば、私たちには慰めです。日々の自分のわざが、全部が意味づけされなくても、「主にある死」を憶えて生き続けたいと思います。
(1973年11月18日 永眠者記念礼拝 岩井健作)


