1973年10月14日 岩国教会週報
「先週(世界聖餐日)説教より」コリント第一11:23-26
《翌週週報欠落》
(岩国教会牧師8年目、健作さん40歳)
このパンを食し、杯を飲むごとに…主の死を告げ知らせるのである。(第一コリント 11:26)
福音主義(プロテスタント)の教会が、福音を伝えることを「言葉」に懸けていることは、素晴らしいことであると同時に、恐ろしいことでもある。言葉というものは、両刃の剣のようで、言葉を裏打ちする真実・愛・行い・人格といったものがなければ、これほど嘘や虚偽になり易いものはない。その危険を冒してまで、言葉で勝負をするのは、徹底した人間信頼であり、その根拠にはイエスの業(わざ)と生涯全体を「神の言葉(=キリスト、神の子、救い主)」として受け取る信仰なしにはあり得ない。言葉を用いる教会のわざとしての説教は、各人の受け取りと解釈の広がりを持つし、説教は時代の文脈の中で語られる。しかし、聖餐はただ一つのことを示している。聖餐は私たちをイエスの死に向き合わせる。私たちは、死なねばならぬ「古き自分」が死ぬ場をみつめずに、交わりをもつことは出来ない。古き自分に死ぬ場は、イエスの死と結び合わされるところ以外にはない、という経験の共有を大切にしたい。
(1973年10月7日 世界聖餐日 岩井健作)


