和解(1971)

1971年1月24日 岩国教会週報
「先週説教より」マタイ6:5-15

(岩国教会牧師5年目、健作さん37歳)

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。(マタイ6:12)

 人をゆるしたという行為が神からゆるされる条件になる、とこの祈りを理解するのは間違いであろう。聖書の思想では常に神のゆるしが優位している。マルメラードフ(『罪と罰』ドストエフスキー)のセリフではないが、救いに値するとは思っていない故に、主は招き給う。これは選びであり、恵みである。しかし、それにもかかわらず、ここには行為の先行が語られる。またこれは他の箇所にもある(マタイ6:14以下、18:35)。これをどう理解するか。一つの手がかりはルカのテキストである。ルカでは後半を「罪」という言葉で表し、前半の「負債」と使い分けている。とすると「罪」は事柄の問題となり、「負債」(ロマ13:17では「義務」の訳あり)は体験の問題となる。我々は日常の人間関係の中で、本当には人を許せないという体験もあるだろう。また、小さなことでも許すことが出来たとき、自分の自由と喜びを感じるだろう。その自覚は、罪の深い自覚ともなり、神のゆるしの片鱗にふれている自覚ともなり、祈りは後半の「おゆるしください」へと集中する。

 さて、体験の問題であるが、私たちが体験として自覚している人々との不和・断絶は痛みとして憶えられる。しかし、私たちの存在そのものが断絶を作り、それに気づいていないとしたら、その場合でも人間の責任はやはり問われるだろう。在日朝鮮人二世の中村氏(山口県出身、早稲田大学生)の焼身自殺は昨年10月6日の新聞でも伝えられているが、私は「月刊キリスト」1月号(日本基督教協議会文書事業部)の記事で初めて問題の深さを知った。超え難い断絶があり、その原因は我々の側にある。もし「和解」があるとするなら、この体験を秘めつつ、ゆるしへの祈りから出発する以外にない。

(1971年1月17日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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