2012年1月1日 降誕節第1主日、
元旦礼拝、明治学院教会(258)
「牧会祈祷」
(牧会53年、明治学院教会牧師、健作さん78歳)
詩編 96:1-3、マタイ1:1-17
1.権威づけとしての系図。マタイは一方で系図の権威づけを尊重する。だが、そこへの批判的一面もある。
系図の中にタマル(マタイ1章3節)、ラハブ(5節)、ルツ(5節)、ウリヤの妻(6節)を入れる。
異邦人の4人の女性、ダビデの罪の事跡が神の救済の包容の大きさを示す。
2.長々と続く一つひとつの名前には旧約聖書の歴史的物語がある。
延々と続く人間の生きる営みを記してきたアブラハムからヨセフに至る「血の繋がり」はヨセフで途絶える。
イエスは「聖霊によって」誕生している(このくだりについては、イエスはマリヤとローマ兵との子供であった等と憶測する説すらある)。
「血の繋がり」は人間にとって宿命的直接性であり「血の繋がり」は絶えず傍流を排除する。
例えば創世記のアブラハムには子がなかった。
側女のハガルに子イシュマエルをもうけた。血統への思惑である。
しかし、正妻のサラから(神の計らいにより)イサクが生まれる。
「兄弟は他人の始まり」と言うが、イシュマエルは追放されイサクが正統の家柄を継ぐ。
系図は人間の横関係(社会)を作らない。その系図がヨセフでぷっつり切れる(16節)。
マタイはそれを18節の「処女降誕」物語に繋げる。
マタイの系図の神学的・信仰的意図は、人間の伝統・歴史は器として枠組みとして尊重されねばならないが、それへのもたれ掛かりが断ち切られ、初めて神と出会うのだと。
「断ち切る」、ある意味では「ピリオドを打つ」こと。
そこに非連続の連続という歴史の中に働かれる神の姿を見る。
パウロの言葉を援用すれば「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(Ⅰコリント15:59)となる。
3.最近のマタイ研究では、マタイは原始キリスト教の伝承の力点を少し変えたという。
「ダビデ王の家系にメシアが生まれる」というユダヤ教の主張をイエスのメシア性の証明に使った系図をアブラハムにまで遡らせて、”イスラエル史全体が神の導きにある”としたのはマタイであるという指摘である。
「ダビデによるイエスの証明」という固定観念を破り転換させ、歴史における神の働きへの新しい視点を強調する。
固定観念に終止符(ピリオド)を打って、そこから自分が生きる現実への枠の組み直しをしているのがマタイだという。
4.マタイは旧約の伝統を大切にした福音書である。
その伝統を受け取り直してゆくところに「伝統の成就者イエス」を見ている。
自分がいつの間にか縛られている固定観念、固定的世界観、固定的価値観、したり顔の常識、社会的しがらみの知識、視野の狭さ等にもピリオドを打つ知恵を「血の繋がり」の相対化にさらに加えていく勇気を与えられて新しい年を生きたいと思う。
5.最後に天野忠さん(詩人 1909-1993)の「新年の声」という詩を記します。
「新年の声」 天野忠
これでまあ
七十年生きてきたわけやけど
ほんまに
生きたちゅう正身のとこは
十年ぐらいなもんやろか
いやぁ
とてもそんだけはないやろなあ
七年ぐらいなもんやろか
七年もないやろなあ
五年ぐらいとちがうか
五年の正身……
ふん
それも心細いなあ
ぎりぎりしぼって
正身のとこ
三年……
底の底の方で
正身が呻いた。
-そんなに削るな。