2011.12.25、明治学院教会(257)クリスマス
(単立明治学院教会牧師 7年目、健作さん78歳)
ヨハネによる福音書 3:16-17
1.先ほどのパワーポイントで観たクリスマス物語は、マタイ福音書の東から来た博士の話や、ルカ福音書の羊飼いの話を総合して構成したものです。
マタイは、神の律法に熱心であったユダヤ人が「救い主」の誕生に気づかず、遠くの異邦人の三人の博士(現代的には御用学者でない研究者)がイエスを探し当てたと述べ、「灯台下暗し」とのメッセージを送っております。
ルカ福音書は、イエスが家畜小屋という普通の人の交わりからも外れたところで生まれたとの物語を語り、イエスは貧しさの中にある人を慰めた、と「神の姿」の象徴を語っています。
だから、社会の最下層で働いていた羊飼いたち(ルカ福音書は金持ちへの警告を多く含んでいます)が、一番先に救い主の誕生を知らされたのだというメッセージを持っています。
2.ヨハネ福音書は美しい物語は持ちません。
神学用語の理詰めですが、簡潔にイエス誕生の意味と筋道をまとめています。
”神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された”(ヨハネによる福音書 3:16、新共同訳)
”独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである”(3:16、新共同訳)
というメッセージです。「一人も滅びない」という事に殊に焦点を当ててみます。
3.ロシアの文豪ドストエフスキーの小説『罪と罰』の中で、神の救いについて語られている場面、マルメラードフという飲んだくれが言うセリフを思い出します。
最後の審判で、全部の者が裁かれた後、俺たちにもお言葉がある。
「お前たちも出てくるがよい!酒呑みども、意気地なし、恥知らずども、出てくるがよい」
すると知者・賢者は言う。
「主よ、さらば何によって彼らを迎えん」
そこで神様は仰せられる。
「彼らのうち一人として、かつて自ら救いに値すると思いし者なきが故に…」
「そして神様は御手を差し伸べてくださるので、俺たちは地に平伏し…涙を流して…全てを悟るのだ!主よ、御国の来たらんことを」
自分は救いに値しないと思っている者が救われるというドストエフスキー独特な逆説的救済観があります。
自分の力では救いに至らない。
救いは神の赦しと恵みによる。
その関係の中にある自分を悟る(信じる)というのが聖書の救いの筋道です。
4.イエスはこのことを全く別な表現で語ります。
”あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである”(マタイによる福音書 5:45、新共同訳)
イエスの振る舞いと生涯がつぶさに語られるのは「神は…世を愛された」(3:16)という真理を抽象化しないで「身に染みて」分からせる物語なのです。
「身に染みて分かるように」という伝達の方法を神学的には「受肉」という術語で言い表します。
別の言葉で言えば、「一緒に苦しむ」「共に悩む」ということです。
イエスの誕生、そして生涯の出来事の物語は、福音書という形の文学として、つまり「身に染みる」物語として伝承されたのです。
クリスマス物語はフィクションの部分が多いのですが、「身に染みる」物語です。
「身に染みてケーキを分けるクリスマス」
被災地で詠まれた句です。
家族が揃っていることは奇跡なのだ、という恵みの自覚があります。
5.南三陸町 歌津馬場字の集落、中山生活センターのその後のお話、「福福号」のこと、村人の「我々には太平洋銀行がついている」という言葉には涙しました。
(サイト記 :太平洋銀行は実在しない。津波の甚大な被害の中で、なお海”太平洋”への感謝・希望が語られたのであろうか)
▶️ 避難所を訪ねて
257-20111225◀️ 2011年 礼拝説教