ひとりびとりの重さ(2008 説教テキスト更新)

2008.9.15(月)更新
▶️ 礼拝説教バージョン(2008.7.27 岐阜地区3教会合同礼拝)
▶️ 蘇原教会
▶️ 中濃(旧坂祝)教会

(牧会49年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん75歳)

マタイ 5:17-20
”あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ”(マタイ 5:20、新共同訳)

「義」は、聖書の中心的な概念である。

 新共同訳聖書巻末の「用語解説」では「義は神の属性」「神が主導の関係」「義は神の本質」と説明される。

 聖書の代表的箇所を一つあげるとすれば、パウロの「神の恵みにより無償で義とされる」(ロ−マ3:24)を心に留めたい。

 日本基督教団信仰告白も「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義とし給う」と、宗教改革以来の中心的な「信仰義認」の教義を明示する。

 ところが、今日のテキストでは、「神の義」ではなくて、「あなたがたの義」が問題にされる。

 この20節はマタイの編集句では大変大事な部分。

 マタイは「私の兄弟である小さい者の一人にしたのは私にしたのである」(25:40)と、旅人や病人や飢えている人への愛を教会に求める。

「多くの人の愛が冷える」(24:12)と、マタイは彼の時代の教会の兆候を嘆く。

 山上の説教では「何よりも……神の義を求めよ」(6:33)と締めくくりつつ、その上で、あえて「あなたがたの」義への参与を求める。

 無償で受けた恵みは「人間的な」姿の賜物で貫徹される。

 あえてイエスが教えた教えを実践するようにと促す(これは新たな律法主義ではない)。

 聖書の中には、二つの文書の型がある。

 パウロのローマ書のような「(神の義)教義型」の文書。

 マタイ福音書のように、人間の生き方を説く「(あなたがたの義)実践型」の文書。

 前者のみを強調して「救いの完結」に満足すると観念的になる。

 後者は「牛に引かれて善光寺参り」「よき牛があったで拝む善光寺」型。

 なだいなだ著『神、この人間的なるもの −「宗教をめぐる精神科医の対話」』(岩波新書)。この本は後者を強調する。

 この本の対話の主、なださんの友人アルコール依存症治療の名医・河野裕明氏(久里浜病院院長、カトリック)は「断酒会」の営みという人間的なるものの中に宗教性(救い)を見る。

▶️ 神、この人間的なるもの(2004 川和・教会報)

▶️ 『神、この人間的なるもの』後日談

「行う」は「完成する、満たす」(17)の意味。

 我々一人一人の存在の重さが「神の義」に繋がり、救いを満たしていく。

 幼稚園で見た映画「鹿の救いと一匹の蟻の物語」は、蟻一匹の重さが梃子を動かし狼に狙われた鹿を救う。

 神が賜るひとりびとりの重さを自覚したい。

◀️ 礼拝説教インデックス

▶️ 神、この人間的なるもの(2014 西宮公同・礼拝説教)

▶️ 礼拝説教バージョン(2008.7.27)

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