ひとりひとりの重さ(2008 礼拝説教・岐阜地区合同礼拝・平和聖日)

2008.7.27、日本基督教団 中部教区 岐阜地区、
蘇原教会・中濃教会・在日大韓教会、3教会合同礼拝

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(牧会49年、単立明治学院教会牧師3年目、健作さん74歳)

マタイによる福音書 5:17-20

”あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ”(マタイ 5:20、新共同訳)

1.「義」は、聖書の中心的な概念である。よく把握しておきたい。

 新共同訳聖書巻末の「用語解説」では「義は神の属性」と説明。

『岩波キリスト教辞典』には見出語「神の義」のみがある。

「人間の罪に直面して示される裁きとしての神の義(《分配的正義》の正当性)がキリストの十字架において遂行され、これによって罪人である我々が《神の義》とされた」。(『岩波キリスト教辞典』)

 参照「神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ 3:24)、
 「罪と何の関わりもない方…によって神の義を得ることができた」(Ⅱコリント 5:21)。

「義」は神の本質。

 日本基督教団信仰告白も「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義とし給う」と、宗教改革以来の中心的な「信仰義認」の教義を明示する。

2.ところが、今日のテキストでは「神の義」ではなくて、「あなたがたの義」が問題にされる。

 ここはマタイ福音書の特徴であり、大変大事な部分。

 マタイは「私の兄弟である小さい者の一人にしたのは私にしたのである」(25:40)と、旅人や病人や飢えている人への愛を教会に求める。

「多くの人の愛が冷える」(24:12)と、マタイは彼の時代の教会の兆候を嘆く。

 この教会には愛の戒めを軽んじる人々がいたのであろう。

3.山上の説教でマタイは「何よりも……神の義を求めよ」(6:33)と締めくくりつつ、その義に「わたしたちも私たちに罪ある人々を赦しましたように」(6:33)と、行動した者の祈りを捧げる。

4.さて、聖書の中には、二つの文書の型がある。

 パウロのローマ書のような「(神の義)教義・教え型」の文書。

 マタイ福音書のように、人間の生き方を説く「(あなたがたの義)人間・勧め型」の文書。「牛に引かれて善光寺参り」型。

5.なだいなだ著『神、この人間的なるもの −「宗教をめぐる精神科医の対話」』(岩波新書)。この本は、なださんの友人•河野裕明医師(カトリック信徒)が、「断酒会」(あなたがたの義)という人間的なるものの中に宗教性(救い)を見る生き方を示唆している。

「行う」は「完成する」(マタイ 5:17)。

 我々の行いの際、一つ一つのことが神の義に繋がり、救いを満たしていく。

7.心に残るお話。

 幼稚園で見た映画「鹿の救いと一匹の蟻の物語」。

 暗い世にあって、ひとりひとりの存在の重さを神の前に自覚したい。



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