神、この人間的なるもの

2003.12.23、川和教会報『麦穂』(No.16、2004年1月25日発行)所収

「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」マタイ 3:15

神、この人間的なるもの

あの時に出会ったのは、あくまでもGという一人の人間さ。カトリックの神父といっても、一人一人みな違う。おれは一人の人間に会った。教義に会ったわけじゃあない

 なだいなだ氏と対談している大学時代の友人で精神科医のT氏の言葉です。『神、この人間的なるもの − 宗教をめぐる精神科医の対話』(なだいなだ著、岩波新書 2002年)の興味を引くくだりです。

 この本は、現代を新しい形の宗教に呪縛された時代とみながら、教義や信仰のありかたからではなく、「信じる」ことを求めてしまう人間のありかたから、宗教を考えている書物です。

 因みにT氏の母堂は、T氏がカトリックの洗礼を受けたら一緒に入信してしまったそうです。「大変だ。死んでも、同じところへゆけなくなる」と言われたそうです。もちろん、一般論としてこのような人間の関係の持ち方とか共同性のありかたは、人間が一人一人主体的に生きていかないと、長いものには巻かれろ式の体制順応型の生き方になってしまうおそれがあるので、批判的に扱われなければならないことを百も承知で、なおそれはなんだろう、と思考しているところがこの対話の魅力です。


 さて、聖書の中には、教義を伝えることに熱心な文書と、人間の生き方を説いている文書とがあります。冒頭に引用した言葉がのっているマタイ福音書などは後者に属するものです。なだいなだ氏流にいえば「この人間的なるもの」に力点をおいています。

 それに比べてパウロの書簡は、どうも「人間」よりも「教義」が前面に出ているように思えます。キリスト教を求める人のタイプには意外と「教義型」の求め方をする人が割と多いのではないしょうか。けれど、私の経験ですと、「人間型」を大事にしている人の方が長続きをしているような気がします。

 このことを、マタイもパウロの使っている「義」(ディカイオシュネー)という言葉について考えてみます。新約聖書では、「義」は「正義」「神に受け入れられている状態」という意味で使われています。とくにパウロは、手紙のなかで、この「義」を自分の信仰思想を示す中心概念として用いています。

 明確にこの事を言っているのは、新約聖書277ペ−ジ、ロ−マの信徒への手紙 3:21-24です。ここでは「神の恵みにより無償で義とされる」ことが述べられています。罪人である人間が、神の啓示(現れ)であるイエス・キリストの贖いによって、罪を赦されて救われることの全体をこの「義」に包括させて語ります。「義」は「神の」義を現しているものとして用いられています。「神の」というところに力点があります。「義」は神の本質、意志を示し、神の愛、神の恵み、というように、神が主導の関係を示しています。日本基督教団の信仰告白においても「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう」と告白されています。聖書は一面で「義」を徹底的に、神の側に引き寄せて述べます。これは私たちの信仰の基礎として据えておかねばならないことです。

 ところが、同じ新約聖書のマタイでは、この「義」を、もっと広く人間と人間の関係まで含めて考えます。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」などはそのことを示しています。義は我々の行いを含めて、実現していくのだ、という考えです。

「行う」と訳されている言葉ですが、口語訳では「成就する」です。「満たす」という意味で、我々の行為が、「義」の手段だということではありません。イエスに従っていく、みんなの小さな一つ一つのことが、神の義に繋がって、救いを満たしていくという意味です。


 かつて幼稚園の子供たちとみた映画のことを思い出します。
 森の中で一匹の鹿が、倒れてきた立ち木の下敷きになってしまいます。角が邪魔をしてどうしても抜け出せません。そこへ子ウサギが通り掛かります。何とかして木を取り除けようとしますが、とても手に負えません。いじわるカラスがそれを見つけました。カラスは、森の奥のオオカミに良い獲物があると教えに行きます。一方、子ウサギの帰りが遅いのを心配して、お母さんウサギが探しにきます。親ウサギも必死になって助けようとします。そうしてテコを使えばよいことに気が付きます。枯れ木を運んでテコにします。オオカミはカラスの案内で刻々と近づいてきます。こちらも森の小動物が気ずいて次々にテコにのります。リス、ネズミ、カエル。いよいよ狼が近くに来たとき、危機一発で、一匹のアリが木の枝から飛び下りたらテコが動いて、鹿は助かります。


 救いは、考えてもみなかった奇跡であるには違いないのですが、パウロ的な発想では、あわやという時に、猟師が現れて、ズドンと狼をやっつけた、というような救済論になるのだと思いますが、マタイ的な発想ですと、奇跡には違いないのですが、アリの重さも含めての救いの完成の物語になります。

 キリスト教を説くのに、ただ「信ぜよ」と言う説き方がありますが、イラク戦争を「神の正義だ」と思い込ませることに荷担をする宗教になってしまってはいないでしょうか。逆に、戦争で傷つけられた人々に寄り添うことこそ、神の義を満たしてゆくのだと信じます。


「神、この人間的なるもの」後日談