十戒

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第7回「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」
出エジプト記 24章15節-18節、31章18節

「十戒」については、ご存じの方が多いであろう。セシル・B ・デミル監督の映画『十戒』(1956) を思い出される方もあるかもしれない。「十戒」は旧約聖書では重要な意味を持つ箇所である。キリスト教でも重んじられ、教会の日曜礼拝に使われる礼拝文に載せられている(『讃美歌21』93-3 日本基督教団讃美歌委員会編 144ページ)。

さて、エジプトを脱出したイスラエル民族の舞台はシナイの荒れ野になる。日本聖書協会の新共同訳聖書を手にされる方は、シナイについては「聖書地図2 、出エジプトの道」を、「十戒」の概略については聖書巻末の「用語解説」の「十戒」を参照されるとよい。「イスラエルの宗教生活の根底になっているシナイ契約の条項で、神、他人に対する義務を規定している。……」などが記されている。これはこれとしてじっくり学ぶに値する。

「十戒」を包むお話は出エジプト記19章から40章の物語である。例によって、聖書学の研究によれば、幾層にも資料の編集が繰り返されてきて、最終的編集は祭司資料を構成した人達の手によると言われている。テキス卜が語っているところの筋を追えば、エジプ卜を脱出したイスラエルの人たちはシナイの荒れ野に入る。山に面して天幕を張る。モーセは民に「主が来臨」する事を告げ、その備えをさせる。雷鳴がなり、稲妻が走って、主が山頂に来臨する。主の招きでモーセは山に登る。主はモーセに言葉を語り、その意志が宣布される(20章)。モーセに「十戒」が授与される関連記事は19章から24章の以下の箇所に出てくる。19章1節-25節、20章18節-26節、24章15節-18節、さらに次の段落の25 章から31章の「臨在の幕屋建設と祭具、祭司叙任の方法」を記した記事の最後には「主はシナイ山でモーセに語り終えられた時、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」(31:18) と結びが記されている。これらの記述の中では、神の顕現の仕方に、嵐の中の神顕現(19:16) と火山的表象での神顕現(19:18)が入り交じっているのは、異なる資料が用いられているからである。

 さて、日本聖書協会の口語「聖画入り」聖書によれば、小磯さんのさし絵には「十誠」と題して聖書テキス卜に、出エジプト20章1節-17節が挙げられている。『新共同訳』では、文字が「十戒」に変更されているが、箇所は同じである。しかし、その箇所を読んでも、絵との整合性が見つからない。『小磯良平聖書さし絵展』(2008年)図録では、聖書箇所の引用は、「出エジプト記」24章15節-18節 、31章18節の2か所になっている。編集者の神戸市立小磯記念美術館の辻智美氏(学芸員)が差し替えたものと思われる。絵の場面から想像すれば、この2か所の引用の方が適切である。だとすれば、20章の十戒本文の箇所ではなくて、小磯さんは、この箇所を絵にしたのであろう。左手に掲げているのが31章の「二枚の掟の板」であろうか。僕には開いた「本」のようも見えるのだが、現代人の先入観であろう。小磯さんの下図のデッサンでは石の板の上部の二つの山形がもっとはっきりしているから、二枚という事からくるイメージかもしれない。右前方上方には厚い雲の中に光がひときわ鋭く輝いている。これは24章の「雲は山を覆った…主は雲の中からモーセに呼びかけられた」(15-16節) と「主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた」(17節) との記事の絵画化であろう。雲と主の栄光との結び付きは出エジプ卜記では何回も出てくる(16:10, 19:9, 19:16, 34:5, 40:34)。燃える火はもともと申命記(4:5-24, 4:32-40)に出てくるイメージである。雲と火は、先に述べたように神顕現の表象の違いである。

 出エジプト記は、内容的に言うと、エジプ卜のファラオの権力支配で最下層の奴隷であった民族が、奴隷からヤハウェ(主)なる神に導き出されて、自律した人格関係を構築する相互関係を形作って生き始める旅の出発を意味していた。ひらたく言えば、縦社会の人間が、横並びになるという事である。その導きの手立てとしてモーセが指導者に立てられ、「十戒」が与えられた。それは、単に守るべき「戒律」ではなく、神のイスラエル民族への自律への信頼の徴という側面を持っていた。十戒を実践し、具現化する事は、主なる神への応答であった。神と民の関係を、招きと応答の関係に象徴させているのが、このモーセへの十戒の授与という場面である、と私は理解する。右手を高くかざしているのは光で象徴される神の招きへの応答を表している。わたしはこの絵のモーセの足の位置に注目したい。左足にしかと体の重心をかけている。イスラエルの人々を導いてゆく使命にずしりと体重を載せている。ところが右足は踵をあげて神の直裁な招きに体を向けている。この絶妙なバランスでモーセを表現しているところに小磯さんの直観的な聖書テキストへの動的な把握がある。この山の裾で、モーセを待つイスラエルの人々には、この緊張が分からなかったにちがいない。この後、出エジプト記は32章以下で、「金の子牛」の物語に入ってゆく。「金の子牛」は自分違の安心を満足させる、偶像でしかなかった。それはヤハウェなる神への背信の最大の物語である。小磯さんは、背信の場面は描かなかった。そこを遥かに素通りして、次回はヨシュア記の物語までさし絵は飛んでゆく。


(サイト追記)本サイトに小磯画伯の挿絵は掲載できません。