神われらと共にいます(1994 震災前のクリスマス・説教要旨・週報)

1994年12月25日、降誕日、神戸教会クリスマス礼拝
(震災の23日前)

(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)

マタイ 1:23、ピリピ 2:6-11、説教題「神われらと共にいます」岩井健作


 ”キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜(たまわ)った。”(ピリピ人への手紙 2:6-11、口語訳 1955)


 このテキストは、パウロの手紙の中にありますが、一部の句の挿入は別にして、全体がパウロ以前の初代教会がキリストを讃美告白した文章だと言われています。

 おそらく、マタイやルカのイエス誕生物語が創作されるより、はるか以前のものだと思われます。

 形式は、当時のグノーシス(覚知主義)の哲学的パターン(神が人となり、また天上に帰っていく)を用いてはいますが、貧しき者・病める者・疎外された者の友となって、ユダヤとローマの権力によって十字架の死を遂げたけれども、その日常そのものが愛と生命に溢れた復活の命そのものであったイエスの生涯と振る舞い及びそのイエスに従う者の信仰告白を短く言い表しています。


 そしてこれが《”インマヌエル”》「神われらと共にいます」(マタイ 1:23)という、最も短い信仰告白の内容でもあります。


 ”「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。”(マタイによる福音書 1:23、口語訳 1955)


 その象徴がまた《飼い葉おけのイエス》です。

 神が共にいますゆえに、人生や、歴史や、社会の出来事が「恵み」として見えてくる転換を経験する日が、私たちの信仰のクリスマスです。


 詩を一つ書き記します。


 「神さまに質問」

 神さまがこの世に存在するなら
 一言だけ会って聞きたいことがある
 それは、父と母の親戚の中で、今までひとりも
 障害を持って 生まれた人がいないのに
 なぜ ぼくひとりに 筋ジスという試練を与えて下さったのか 聞きたい
 夢の中でもいいから 答えてほしい
 でもそれは不可能なことだから 自分なりに 考えてみた
 きっと 神さまが このお母さんだったら
 その子を 育てられるという自信があったから お母さんを選ばれたと 思う
 選ばれたぼくは 生きるという命の大切さを
 社会の人たちに 教えることを 神さまが与えて下さった使命だと思いたい
 障害者は 社会が忘れていることを 思い出させるために
 神さまが派遣されたのだと思う


『神さまに質問―筋ジストロフィーを生きたぼくの19年』(栗原 征史、ファラオ企画 1991)。引用は『いのちを得させる苦難』清水ちょう子著(教文館 1994)から。


(1994年12月25日 神戸教会クリスマス礼拝説教要旨 岩井健作)

1994年 礼拝説教

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