1971年1月31日 岩国教会週報
1月27日(水)祈祷会・聖書研究会より
(岩国教会牧師5年目、健作さん37歳)
あなたは弓の前からのがれた者を再び集めようと
あなたを恐れる者のために
一つの旗を立てられました。(詩篇60:4)
秀逸の詩だとは思わないが、戦後早い時期に『詩篇選釈』(浅野順一、新教出版社 1958)に取り上げられている。「キリスト者には…一つの旗が与えられている。『十字架の旗』『汝を畏るる者』(詩篇60:4)に与えられた旗である。…それなのに、戦争中、日本のキリスト者も…この旗を降ろし…偏狭にして独善的な民族的精神に自己を埋没する危機があったわけである」(p.78)という一節が示すような自覚によるものと思う。今日、状況は再び似てきている。三島の死について、ある中国系の知識人は「どうしてこうも日本のことだけを思いつめるのか。この自己中心主義が外国人には理解できない」と言った。戸村政博氏は、靖国問題を「死者の怨念を旗竿に押し立てたナショナリズムの再来」と言っているが、三島事件を背景にして、1月22日、三たび国会に提出された靖国法案は極まるところ、天皇制を中心とした民族の精神的再建へとまっしぐらである。
我らは「弓の前からのがれ」(詩篇60:4)ていないだろうか。しかし「主を恐れる者」のために「一つの旗が立てられている」と詩篇の詩人はいう。この旗は何か。我々が「イエスは主なり」(他の何者でもなく)という信仰による恐れと慄きに立つ時、その旗は見えてくる。戦責告白が言っているように、「あやまち」を繰り返してはなるまい。
(1971年1月27日 祈祷会・聖書研究会 岩井健作)


