愛がわたしたちの心に注がれて《ローマ 5:1-5》(1979 礼拝説教要旨・週報)

1979.9.16、神戸教会
説教要旨は9月30日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

ローマ人への手紙 5:1-5、説教題「愛がわたしたちの心に注がれて」


 ロビンソン・クルーソーは絶海の孤島で、難破船からおろした袋に付いていた大麦の種が芽を出しているのを見つけ、「パンが食べられるかもしれない」という希望を持った。

 しかし、実際には播種(はしゅ)に失敗したり、鳥に実を食われたり、粉を作ること焼くことに苦労したりして、やっとパンが食べられたのは、4年後であった。

 けれども、その間の労苦が実に生き生きと描かれていて、困難や行き詰まりの間からも、なおこぼれ落ちるように希望が感じられる。


 パウロが「ローマ人への手紙5章」で語った希望も、外に向かっては伝道の困難を克服し、内に向かっては律法主義を克服していく労苦の間に垣間見られるものだったに違いない。


”このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。”(ローマ人への手紙 5:1-5、口語訳)


 パウロは内と外との問題に幾度となく挫(くじ)けるような思いを抱いたことだろう。

 抱いていた理想が砕け「失望に終わる」(ローマ 5:5)思いもしたことだろう。

 しかし、その度に「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから……神に対して平和を得ている。……そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」(ローマ 5:1-2)という信仰の初心、根底に立ち返ったに違いない。

 そして、必死になって患難と格闘する姿の中に、自分にも忍耐が生み出され、忍耐が練達を生み出し、練達の中から見えてくる希望が初めの希望の実のように思えた様子が、この節には滲(にじ)んでいる。

 このような経験が「わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ 5:5)と捉えられている。


 塞(ふさ)がり切ったところが、自分では全く予期しなかったところへと開かれていく有り様を受け止めて、神の愛が注がれていると言い切っていく信仰の素晴らしさがここにはある。

 私たちは、歳をとるとだんだん現実主義者となって萎縮する。

 またそうでなければ、”年甲斐もない”生き方となるかもしれない。

 そして、現実を知ることは、現実の重さ・患難を身にしみて知ることでもある。

 しかし、現実の重さに打ちひしがれることの中に、「聖霊による、神の愛の注ぎ」を知るとしたら、最も現実の壁に閉じ込められる者も「夢をみる」(使徒行伝 2:17、口語訳)ことが許されるのではないだろうか。


 私たちは、神の目から見るとき、どんなにか未熟であるに違いない。

 人生の中で出会う出来事が、私たちを打ちのめすのではなく、そこに「神の愛」を見ることができるように、祈りつつ歩もうではありませんか。

(1979年9月16日 礼拝説教要旨 岩井健作)


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