1979.9.9、神戸教会
説教要旨は9月16日の週報に掲載
(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)
ヨハネによる福音書 6:15-21、説教題「洋上の思想」
”「わたしだ、恐れることはない」”(ヨハネ福音書 6:20、口語訳 1955)
15節。「イエスは……ただひとり、また山に退かれた」とある。
”イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。”(ヨハネによる福音書 6:15、口語訳)
カール・バルトの「隠された神」という言葉を思い起こす。
「イエスを捕らえて王にしよう」という群衆の目と手の貪欲さが、毅然と拒絶されている。
「山」はイスラエルでは「聖なるところ」を意味する。
詩編の詩人は「われは山に向かいて目をあぐ」(詩編121篇)と歌った。
”われ山にむかひて 目をあぐ わが扶助(たすけ)はいづこよりきたるや”(詩篇 121:1、文語訳)
人間の観念の内側に組み込まれ得ない、全く他なる所に、神は在まし給う。
「また……退かれた」という言葉に我々の心の鈍さが映し出されている。
しかし、「隠された神」への実感なしでは、出会いもまたない。
ヨハネ福音書は、山へ退かれたイエスが、海で、しかも荒れている海上で、弟子たちと出会うという象徴的物語を続けている。
フランス文学者・矢内原伊作氏は「海について」のエッセイの中で、「海は一切の……人間的なもの即ち陸上的なものを、翻弄し、破壊し、否定する。……」と述べている。
分かりきったもの、自明なもの、固定されたもの、いわゆる常識の域を出ないもの、といった陸上の思想の否定を「海」が意味しているとすれば、「イエスが海の上を歩いて舟に近づいて来られる」ということは、聖書独自のメッセージである。
19節。イエスが近づいた時、弟子たちは恐れた、とある。
”4、50丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。”(ヨハネ 6:19-20、口語訳)
陸上で出会うイエスは、我々の観念や思想で歪曲されているから、恐れないで済む。
しかし、海の上のイエスには恐れざるを得ない。
仕えること、奉仕、十字架を負うこと、隣人を愛すること、人をゆるすこと、思い煩わないこと。
これらはイエスが説いたところであるが、ほどほどではなく、本当にそれらを貫こうとすれば、恐れざるを得ない。
しかし、海上でイエスは「わたしだ、恐れることはない」とだけ言っている。
「恐れることはない」という言葉への信従だけが、我々に残されている道である。
そこを通して新たなるものへと開かれるところに、イエスと共にある「洋上の思想」がありはしないだろうか。
21節「すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた」。
”そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。”(ヨハネ 6:21、口語訳)
この言葉で、私は新島襄の生涯を思った。
洋上で、神への思索を巡らした彼の後半生は、直線的に(すぐに)、目的地へと結びついていく。
信仰による生き方が描く直截(ちょくせつ)さを見る。
「恐れることはない」という御言葉の前に、自らを立たしめて歩むことを祈り求めたい。
(1979年9月9日 礼拝説教要旨 岩井健作)