目が澄んでいれば(2009 礼拝説教・マタイ)

2009.7.5、明治学院教会(160)聖霊降臨 ⑥

(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん75歳)

コヘレト 11:9-12:3、マタイ 6:19-24

目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい(マタイ 6:22)

1.矢内原伊作氏は『顔』という随筆の「耳」の部分で、「聞く人は信仰の人」と述べている。

 聖書の「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ 10:17、新共同訳)を意識している。

「キリストの言葉」はイエスの十字架の出来事の事実(神の義、ローマ 3:22)が私たちを恵みの関係に繋いでいることをいう。

 教師・医師・保育者・母親・牧師などは「聞く」ことが役目の本質に関わる。

2.矢内原氏は「目」については「見ることは自己を形成すること」と記す。

 これは「本質」よりも「途上」の課題である。

 マタイ福音書の著者は、自分の教会の自己形成の問題を意識して「目が澄んでいれば」と語ったのではないか。

3.マタイ6章は「Q資料(イエス語録)」に基づきイエスの言葉の伝承断片を集大成して、5-7章の「山上の説教」の中に位置付けたものである。

 この箇所のキーワードを「澄んでいる」(ハプルース)という言葉だ、とある福音書研究者はいった。

 この語は「分裂しない一つの心」を意味し、当時のヘレニズム・ユダヤ教では宗教的人間の模範的特徴を示す重要概念であった。

 それは、申命記の「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記 6:4-5、新共同訳)に基づく神への関係の集中であった。

 ユダヤ教では「施し、祈り、断食」でこれが表明されていた。

 マタイ6章では、その「澄んで」いるべきそれらの行為が偽善に傾いていることへの批判が語られている。

 例えば、富と神とを適当に使い分ける二元論に対して、マタイは神の義・神の恵みに生きることから始まる自己形成の問題を目の在り方に譬えている。

「あれも・これも」ではなくて、目を澄ませていくことの中に、神の恵みの関係が鮮明に自覚される。

4.コヘレトでは「目」については8箇所で言及されている。

 コヘレトの目の引用の全ての箇所は、目は人を惑わすものとの見方をしている。

「彼の目は富に飽くことがない」(4:8)といった具合である。

 引用した11章は、若者への戒めの箇所であるが、「目に映るところに従って行け。…神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。」(11:9)と反面教師的に用いられている。

 目を青年の自己形成のプロセスの大事な役割と見ているが、「若さも青春も空しい」(11:10)と人生のどん底にある否定を踏まえてのことである。

 その上で、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(12:1)と、人生の諸段階の細部への気配りを促す。

 細部とは日々の積み重ねを意味している。

 その意味で、人生いつでも青春である。歳を重ねても遅くはない。

5.医師・柏木哲夫氏は河合隼雄氏との対談『現代人の不安 − 死の受容』の中で、死に臨み、信仰をしっかり抱いている人、生半可な信仰の人、無信仰の三つのタイプのうち、生半可な人の不安が最も大きいと言っている。

 無信仰の人への肯定が面白い。「目が澄んでいる」のだ。

 信仰は観念ではない。神の「信」への関係である。

160-20000705

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