一緒に居るということ(1970)

1970年10月11日 岩国教会週報
「当日説教より」マルコ2:13-17

(岩国教会牧師5年目、健作さん37歳)

多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席についていた。(マルコ2:15)

 マルコ2章13〜17節の論争物語の中心は、17節のイエスの言葉「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」にある。この言葉の持つ真意は、パリサイ派の律法学者のいう「義人と罪人」の区別そのものの廃絶である。そこには価値の転倒、いわゆる常識の打破がある。その点で、マタイ9章13節やルカ5章32節の並行句の解釈は常識化・教義化・心情化している。信仰という事柄を自分の主体で受け止めてこそ成り立つ真理、と理解していない者にとっては、マタイ・ルカの方が俗受けするのではないか。マルコはあくまでも「義人」という概念そのものに挑戦している。ある者たちとは席を同じく出来ないという彼らの存在が、もはや義人とか罪人とかいう言葉そのものを無力にしてしまっている。「罪人を招く」というのは、義人の否定である。その意味で、これは逆説であるが、逆説はある状況での主体の真理であって、真理一般ではない。我々はこの聖書のテキストを読んで、この逆説の意味を捉えようなどと努力するよりも、むしろ、15節に注目しよう。罪人と一緒にいるイエスを見る。交わりとか連帯性とか愛とかは、理屈ではなくて、とにかく現場に一緒に居合わせることから始まっている。その意味で、理屈にあったことだけしか腰を上げないという動きの狭さが、愛を涸渇させるのである。イエスの平生が、鋭い逆説を支えていることを見失うまい。「多く」とか「大ぜい」(共に15節)が示している豊かさに比べて、なんと我々の交わりは貧しいことか。交わることそのものが危険な人物(取税人はそうであった)を、我々は友人としているだろうか。……そのつながり方には色々あるが。

(1970年10月11日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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