1993年1月17日 降誕節第4主日、
神戸教会週報所収
(神戸教会牧師16年、牧会35年、健作さん59歳)
今年は申し訳ないことに『日毎の糧 聖書日課、家庭礼拝暦 1993』の書店からの取り寄せが遅れてしまいました。
先週から受付に並びましたのでお求め下さい。
本日17日(日曜日)の日課には、表題のテーマのもとに次の聖句4箇所が選ばれています。
旧約は、詩編37編5〜7節、アモス書7章7〜15節。
新約は、使徒行伝(新共同訳では使徒言行録)5章17〜32節、マタイ4章18〜32節。
それぞれの箇所を読み、各人の黙想により、与えられた《信仰の糧》を大切にしたいと存じます。
詩編37編5節「あなたの道を主にゆだねよ」
去る1月3日、突如神のみ許に召された故藤井和幸兄が、1984年12月、アメリカ滞在中に心筋梗塞を患われた後、リハビリの中で記して下さった手紙の一節を、身に沁みて思い起こします。
”一度は失いかけた生命を今日こうしてながらえておりますのは、決して自分自身の力ではなく、正に神の御意志であり、お力であり、自分が《生かされている》ということを、しみじみ感じます。それだけに、再び与えられた生命ですから、たとえ細くとも、永く大切にしていかなければならないと思っております。”
そこには、主にゆだねることから来る、その後の同兄の日々の生き方、また人生への積極性の土台があることを示され、なつかしく思い起こされます。
アモス7章7〜15節「ところが主は…」
預言者アモスの召命の箇所。
「ところが主は…」という言葉が響きます。
神に従うことは、絶えず微妙な人生の路線修正を含むのでしょう。
マタイ4章18〜32節「すると…イエスに従った」
漁師であったペテロとアンデレが、イエスの弟子となった記事。
この記事の印象深さは、ペテロらの人間的側面である、意志や感情、さらには葛藤(きっとあったであろう)には触れないで、「すると…イエスに従った」とだけ直截に記されているところです。
使徒行伝5章17〜32節「人間に従うより神に従うべきである」
「使徒たちに対する迫害」の記事。
イエスの十字架の死をめぐり、そこに逆説的神を見た弟子たちと、反逆者を見たユダヤ当局者との対立の中で、使徒たちの明確な生き方が証言されています。
それは「人間に従うより神に従うべきである」(使徒 5:29)と、イエスの出来事に神をみる明確さでもあります。
「イエスを導き手とし救い主として」(同 5:31)の二重の告白の中に、歴史のイエスを導き手とする信仰者の生活の具体性が出ています。
イエスの証人となることが「弟子」たることの喜びでありましょう。
(1993年1月17日、神戸教会 岩井健作)