1970年8月23日 岩国教会週報
「当日説教より」マタイ13:31-33、ヘブル11:1-6
(岩国教会牧師5年目、健作さん37歳)
天国は一粒のからし種のようなものである。(マタイ 13:31)
エレミアス(新約聖書学者)は、この句はむしろ次のように訳されねばならないという。神の国(支配)は、一粒のからし種、とりわけ少量のパン種と同じ関係にあること。そしてここで注目しなければならないのは、からし種の発展や成長ではなく、からし種の最初と最後の段階の違いとその結びつきであるという。極小のからし種から大きな木(当時、鳥を保護する木は、自分の臣下を保護する強大な国を指す比喩であった)が生じるように、神の奇跡は、人間の目にはたとえ無に等しくみすぼらしくとも、一粒のからし種のごとく始めから豊かな結果を導き出している。その必然性の確かさを、からし種に洞察しているところに信仰がある。
一粒のからし種に向き合う時、みすぼらしい極小のからし種しか画くことの出来ないところに不信仰がある。不信仰は洞察力の欠如であり想像力の枯渇を意味する。想像力とは、いわゆる幻想や空想ではなく「実際に知覚に与えられていない物事を心の中に思い浮かべること」(岩波国語辞典)であり「心でものを見通してゆく力」である。三木清は『人生論ノート』の「利己主義について」の中で、「利己主義者が非情に思われるのは、彼に愛情とか同情とかがないためよりも、彼に想像力がないためである。そのように想像力は人生にとって根本的なものである。…愛情は想像力によって量られる」と記している。例えば、企業の発展にバラ色の未来しか見えない人間、それがもたらす公害に苦しむ人間を想像することができない人間はなんとエゴイストであることか。
私たちの人生、私たちのなしていること、それは『一粒のからし種』に過ぎない。だが、からし種があればこそ、神の支配を想像するまでの豊かさに開かれている。小さく生きることをすまい。
(1970年8月23日 岩国教会 岩井健作)


