「福音と世界」2003年4月号所収
(川和教会代務者牧師 健作さん69歳)
出版当初、芹沢俊介(評論家)、佐々木幹郎(詩人)、佐藤研(聖書学者)諸氏などの優れた書評が続いた。あれ以来もう4年にとどこうとしているのに、キリスト教界は、私を含めて、この本に対して沈黙してきた。側聞すれば、キリスト者の間でも密かに読まれているという。沈黙は幅広い意味を包含しているだろう。
「イエスはキリストではない」の宣言の言葉で始まるこの書の思想は「教会」では危険だ、黙殺するに越したことはないと、多くの教界人は片目で見やるがゆえの沈黙である。スリリングで大胆な問題提起に共感はするが、自分の「キリスト教信仰理解」とどのように繋いだらよいのか戸惑いを覚える、という人もあるだろう。筆者も緩やかではあるが正統的キリスト教信仰の枠を標榜しながら「日本基督教団教師」を続けて来た者として、しかも「教会共同体」の現場を抱えながら、笠原氏がパウロ以後の原始キリスト教に徹底して否定的スタンスを投げ掛けることにどう対話するのか戸惑いを覚え、沈黙の流れに身をゆだねてきた。
しかし、多分著者の意には反した文脈での取り上げ方ではあり、また、これは『福音と世界』誌の読者にとっても書評の筋道をそらしたアプローチであることは承知のうえで、現在の「日本基督教団」の主流派の思想的退廃という文脈の中でこの書を受けとめたい。それを思うと、この真摯な「イエス」についての書物がまず多くの「信徒」に読まれることを心から願う。これを読んで戸惑いを覚えるのであれば、それはそれでよいことだと思う。正統的キリスト教からみてどうかという読み方より、自分にとっての問い掛けを大事にする人には得るところの多い読書となるだろう。著者も「これまでのイエス観に共鳴し、あるいはそれによって救済を覚えている方々には、なにも申し上げることはない」(227頁)とのべている。
著者は、第二次大戦の直後、都市の廃墟の中で一冊の聖書に出会う。それがイエスとの最初の邂逅である。福音書を通じイエスの言動に惹かれ、「信」ともいうべき思いを抱くにいたった(225頁)。受洗。神学校。日本基督教団教師。しかし、原始キリスト教のイエス理解に違和感を覚え、思想的には牧師・赤岩栄氏の影響を受け、実践的には自ら開拓した日本基督教団神戸森伝道所を閉鎖し、以後、毎日曜日午前、聖書を古典として読む森集会を継続主宰、爾来五十数年、「イエスとはなにか」を自問自答し続けてきた。傍ら大学で宗教思想史の研究に身を置きながら、イエスをその「思想史」の方法で明らかにすることに腐心してきた。その集大成がこの書物である。それは、神学、聖書学、文学の立場を横断し、それぞれを批判的に総合する方法だという(23頁)。そこでは、著者の文学、哲学、宗教、聖書学についての広汎な見識が行き交い、自己との関わりにおけるイエスの輪郭を鮮明にしていく。この書物の参考文献には思想史的方法を網羅する古今東西86冊の書物があげられていて、縦横無尽に用いられており著者の方法の奥行きを裏付けている。
ところで、「日本基督教団」の現状とはなにか。それは教義としての「イエスはキリストである」を核心とする「信仰告白」を、宗教集団である教団を守る為の共同体原理として作用させ、本来逆説的に無限に開かれている人間の繋がりを遮断し、近々は「第33回総会」において、その繋がりの社会的、歴史的、現実的な努力の絆であった「靖国・天皇制問題」「性差別問題」「沖縄合同とらえなおし」を教会政治的に切り捨てるような現状である。少し乱暴な言い方ではあるが、私はその根源は「イエスはキリストである」というあの教義の定式に固着する思考にあると憂えている。この強固な定式を固めているドグマの文脈に向かって、「イエスはキリストではない」と問題提起をしているのがこの書物である。これを受け止めるのは大変なことではある。しかしそれは、宗教観念に堕する危険と常に紙一重である「宗教者の宗教性」への問いを受け止め、「信仰」ないしは「信」の出来事性に立ち戻るために必須なことではないかと筆者は思う。
本書の内容は、序(方法:イエスはキリストか)から始まり、1(誕生:時代と風土)2.(生家:父母との関係)。3(発心:挫折の問題)。4(入団:洗礼者ヨハネ)。5(自立:不定形の集団)。6(言説:譬えという方法)。7(行為:奇跡とはなにか)。8(思想:離脱ということ)。9(最後:逆説の生死)。結(総括:イエスは《人間》である)。
特にユニークなのは、イエスの生涯の描き方である。イエスが父を早く亡くし、父への思慕から後に神を「おやじ」と呼び、母との確執を抱えて家庭から「離脱」したことが、後々の洗礼者ヨハネの集団からの「離脱」、さらには弟子集団からの「離脱」、最後には「神」からすらも「離脱」したことにつながるという。著者独特の見解である。そして「離脱」をイエスの思想を特徴づけるキーワードと捉える。著者はイエスの存在形式を「脱」と捉える。そうして、マルコ15:34の「わが神。わが神……」は神からも捨てられた果ての絶命の叫びと捉え、この瞬間こそイエスが「神」からすらも「離脱」し、生死の実相にまみえた刹那であると述べる。著者は親しい現代歌人・岡井隆の一首「詩歌など もはや救抜につながらぬ からき地上を ひとり行くわれは」を引用しつつ、「いわゆる救済のないところに『それでよい』という声なき声の『大肯定』をきくことが真の救済である」(221頁)と、イエスの逆説の生涯を描き出す。教義・儀礼・組織としての「キリスト教」には、宗教が本来保持している逆説が薄れているのではないかとの指摘と問いをこの本に鋭く感じるのは、筆者だけではあるまい。そのようなキリスト教の日常を深くえぐるように問い掛けるのがこの書物である。
それからすれば「イエスはキリストではない」を、テーゼに対するアンチテーゼと受け取らない方がよい。あえて言えば、もし仮に「イエスはキリストである」と表白することに「信(ピスティス)」があるとするならば「イエスはキリストではない」と表白することにも「信」はある。「逆もまた信なり」と、イエスへの関わりの表白の書物として受け取った。善意の読み込みであろうか。
しかし、わたしなりの問いもある。それは著者がパウロを含めて原始キリスト教に否定的であることに関係している。著者はイエスが人間の「共同性」に対してとった生き方をアナーキーと理解する。それは「脱」として表現されている。その「脱」に重ね合わせて生きることが、「どんな人間でもイエスとおなじでありうる」(203頁)と述べられている。もちろん共感し得るところではある。しかし、「脱」だけでは割り切れないのではないか。これは私の問いである。例えば「神殿税」についての田川建三の理解を援用している。だが、田川は「支配体制全体を敵にまわすことになる」(『イエスという男』田川建三 115頁)とすさまじいイエスを予想している。イエスは彼が生きた歴史の文脈で良くも悪くも人間の共同性逆説的であるにしろ積極的に関わって生きたのではないか。その共同性は一方の極みでは巨大な権力に収斂されている繋がりであり、他方の極みでは愛そのものである繋がりである。その愛はイエスが教えを語った貧しい民衆の魂の中に、そしてイエスを裏切った弟子たちの中にさえ生き続けていたのではないか。さらに原始キリスト教の根源には、イエスの愛そのものを受け継いで生きる生命があったのではないか。それが、挫折した弟子たちの死後のイエスへの応答であったと私は思う。だから、イエスの生涯は彼の死で終ったのではなくて、イエスへの応答をその後も引き出してきた。その脈絡で、原始キリスト教を継承する「教会」は、世俗の汚辱にまみれながらもイエスへの応答を繰り返してきた。私は、その「教会」に関わってイエスへの「信」をもち続けている。著者との対話はこれからも続けていきたいと思う。
なお、この本の表紙カバーには彫刻家・佐藤忠良氏が、第2次大戦下強制連行され殉難した中国人を追悼して作成した「飛翔」と題するモニュメントの作品が用いられている。佐藤氏は赤岩栄氏主筆の雑誌『指』に長年カットを描き続けた。著者の交誼の一面が偲ばれる。
(日本基督教団川和教会代務牧師 岩井健作)


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