自分が自分になる(2015 信徒講壇 ⑲ マルコ)

マルコ福音書 8:31-38、”イエス、死と復活を予告する”
自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。(マルコ 8:34)
“己に死ぬ” ”一粒の麦”(聖書 おはこ ④)

2015.10.18、 明治学院教会(信徒講壇 ⑲)

(日本基督教団教師、単立明治学院教会信徒・前牧師、岩井健作 82歳)

 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

(マルコによる福音書 8:34-36、新共同訳)

1.日常の自分には形容詞を付けて見つめている自分というものがあります。

 例えば「俺はダメな人間だ」とか「俺はバカだ」とか、また反対に「俺は結構賢いんだぞ」とか「本当は実力があるんだぞ」とか。

 プライドを持ったり、卑下したりしている自分の姿です。

 喜んでいる自分、悲しんでいる自分。鬱的な自分、浮かれている自分。

 他人を気にしている自分、唯我独尊の自分。明るい自分、暗い自分。

 頑固な自分、融通無碍な自分。まだまだドンドン出てきます。

 しかし、形容詞を付けては表現できない固有な自分というもの、形容詞や説明では表せない、〇〇は〇〇だと、自分を自覚している部分があります。

 例えば「岩井健作」は「岩井健作」だというように、形容詞では表せない自分です。

 昔から変わらない自分であるし、周りの人が「岩井健作だ」と認めている自分です。

 後者を言い表す言葉に「アイデンティティー “Identity”」という言葉がよく使われます。

2.「アイデンティーとは何か?」

 外来語辞書を引いてみました。「正体、身元、同一人物であること、主体性、存在意識」などと説明されています。

 アメリカの精神分析学者エリクソンが『幼児期と社会』(みすず書房 1977、翻訳・仁科弥生)の中で、アイデンティティーとは生まれた時からずーっと自分だということの連続の意識、もう一つは周りの人から自分が受け入れられ、認められている存在感を実感することであると言っています。

3.形容詞の付いた「自分」

聖書のマルコ福音書にはイエスの有名な言葉があります。

自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。(マルコ 8:34)

 前段の文脈に重ねてみました。始めに出てくる「自分を捨て(田川建三訳では”自分を否定する”)」というのは、形容詞の付いた「自分」ではないかと思います。

「形容詞を付けて表現できるような『自分』は捨ててしまいなさい」ということです。

 いずれにしろ、何がしか格好を付ける「自分」というものは、どうでもいいではないか、ということです。

 私は神学校に入って、その格好を付ける「自分」を鋭く指摘されて「本当にまいった」経験を思い出します。

「岩井のそういうところがアカンところや!」と。

 それに足をさらわれないように自覚を深めて、この歳までまいりましたが、今に至るも「自分を捨て続けて」います。

 未だに捨て切れてはいません。

 だから、生きている限り「捨て続けなアカン!」と思っています。

 4.二番目の「自分」は「存在する自分」

 これは宗教的(聖書的)な表現で言えば

「生かされている自分」
「共生の命を許されている自分」
 (自分は独りであるがゆえに共に存在させていただいている)
「”神”との関わりに生かされている」

 という実感です。

 その自分が「歴史」の中に生かされている限り、様々な抵抗・課題を負って生きています。

 それは、人それぞれに違うこともあり、また同時代の共通の課題もあります(例えば、戦争と平和、国家と宗教、等)。

 このことを「十字架」という表現に集約しているのが「自分の十字架を背負って」ということだと理解しています。

「十字架」は命を奪う諸力の象徴です。

 事実、イエスは命を十字架上で奪われました。

 そのイエスの像を追って(従って)「生きなさい」というのが、この箇所の「招き」です。

 イエス(神)の招きである以上、私たちはひたすら「招きに応じて」生きればよいのだ、またそのことは可能なのだと思っています。

 その全過程を「自分が自分になる」と表現してみました。

5.神戸の山下長治郎さん

 神戸で尊敬していた教会員・山下長治郎さんは

「自分にとって教会とは『山下が山下になる所だ』」

 と言っておられたことが忘れられません。

 アララギの歌人でした。

つきつめて しもべ一人がためなりし 一会の思いあたためて来しを」(『山下長治郎歌集』p.100)

 イエス(神)との出会いをあたためて来たのは、つきつめれば、自分という、この一人のためなのだ、という「永遠」との出会いで自分が自分になっていく”恵み”を詠んでいます。

 鹿児島県甑(こしき)島の小学校を出て、点々と仕事を重ね、1928年、矢部喜好牧師から受洗、生涯清貧で、1946年、神戸教会に転籍以来、誰よりも忠実な信仰と教会生活を送り、岩井を神戸教会に招聘した中心的人物でした。

 歌集は笠原芳光氏と私が出版しました。

“己に死ぬ” ”一粒の麦”(聖書 おはこ ④)

評伝・あとがき(『山下長治郎歌集』)

故山下長治郎兄の祈り – 震災による倒壊をまぬかれた神戸教会

1978年度 夏期特別集会《総括》 伝道委員長 山下長治郎

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