詩編121:1-8、コリントⅡ 1:3-7
2015.9.20、 明治学院教会(信徒講壇 ⑱)
(日本基督教団教師、単立明治学院教会信徒・前牧師、岩井健作 82歳)
あなたがたの出で立つのも帰るのも
主が見守ってくださるように。
(詩編121:8、新共同訳)
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
(コリントⅡ 1:4、新共同訳)
1.目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
詩編121編は「山べにむかいてわれ、目をあぐ」(讃美歌54年版301番)の別所梅之介作詞の讃美歌と共に日本人の信仰に深く根付いている。
私もこの詩と共に、若き日、教会のキャンプでの夕陽会(夕べの礼拝)で、家族から離れ、「私はここにいる」という単独者の自覚を深くされたことを思い起こす。
この詩は第一人称の「私」を自覚させる。
人生の旅路は基本的に「独り」であり、その自覚が初めて、家族への、友人への、同志への、社会への直接的ではない関わりを新たに生み出す。
「独り」になれない者は、本当に二人にはなれない。
まして、交わり・連帯・共同といった社会への関わりが上っ面になって、深まらない。
この詩は人生の旅路が基本的に「独り」であることを、そして「独り」であるとは恵みであり、人間を超えた「神」の業であることを悟らせる。
そこは「慰め」の働く場である。
(詩編121編全文、新共同訳) 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。 わたしの助けはどこから来るのか。 わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。 どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。 見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。 主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。 主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。 あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。 今も、そしてとこしえに。
2.この詩の生活の座は明確ではないが、ほぼエルサレムの巡礼者が「旅の歌」として用いたとされている。
対話のある交唱の形式がとられている。一般に、旅に出る子供に父が祝福と激励を与えたのか、エルサレムの礼拝(祭)を終わって帰途に着く民に、祭司が激励の声をかけた礼拝文なのか。いずれにせよ「旅の備え」の詩である。
「神ともにいましてゆく道を守り」の讃美歌(54年版405番)を連想させる。
3.「山々」
二つの説がある。神殿のあるエルサレムの山々。「山」は天に近く、神を想像させる。日本人の自然観からも馴染まれている。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」の主人公マリアは、一家がドイツ軍に追われ修道院の裏口から逃げ出す危機の時「われ山に向かいて目をあげる」と叫ぶ。
そして、スイス・アルプスへの国境を越える。
山々は神が在す場所を暗示している。
第二の考え方。
山は危険な場所である。強盗が襲う(ルカ10:30)。人生の危険を予想している。この詩の時代を捕囚期の終わり・帰還の前と考えれば、越えねばならない国境の山々の険しさ・困難を暗示する。
「山々を仰ぐ」とは行く手の「旅の危険」を想像させる。
4.「天地を造られた主のもとから」は、山の高みに聖所を持つ異教のカナン宗教の否定である。
被造物(自然・人間の文化・経済の力)を絶対化してはならない。安倍晋三の「経済の発展が人間の幸福」「抑止力が平和」という神話とは闘う以外にない。
5.「まどろむことなく」
カナンの植物神(バアル)は冬眠をする(列王記上18:27 エリヤの物語。バアルと対比して”主はまどろむことがない”)。
「主はあなたを見守る方(詩121:5)」の「見守る方」はこの詩編に6回出てくる。
見守る方に覚えられていることはどんなに慰めか。新約聖書コリントⅡでは「イエス・キリ
ストの父なる神」を「苦難に際して私たちを慰めてくださる神」と表現している。
(コリント信徒への手紙 二 1:4、新共同訳)
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
それゆえに私たちも苦難にある者を慰めることが許されている、と励ます。
「慰める力」が「慰める方」を悟らせる。
「出で立つのも帰るのも(詩 121:8)」。
旅の終わりは、この世を出で立ち、神の御元に帰る時ではないか。
葬儀の出棺式で幾たび読んだことであろうか。
それぞれに与えられている「慰める力」に気づき、大切にしたい。
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