地震の後に(Ⅲ)(1995 週報・震災後第3週)

1995年2月5日、降誕節第6主日、神戸教会週報
(阪神淡路大震災から19日目の礼拝)
同日説教「局地の苦難」
前週「地震の後に(Ⅱ)
翌週「地震の後に(Ⅳ)」

(牧会36年、神戸教会牧師17年目、健作さん61歳)


1月27日(金)震災から10日

 朝、12月初旬より硬膜化出血で市民病院ご入院中の奥幸郎牧師(北須磨福音キリスト教会、奥宣道兄ご尊父)逝去の報。

 午後、当教会和室に柩を安置。夜、前夜式。

 奥牧師を見舞った親族のご夫妻は地震で家屋の下敷きとなり7時間半の救出作業もむなしく亡くなられた、との報を聞き人の命の不思議を思う。

 午前、急な要請で北区のO医師宅まで青木伝道師に薬を取りに行ってもらい、急遽バイクで西宮に向かう。

 車の渋滞と倒壊瓦礫(がれき)の間を縫って走っても1時間半。

 帰途、大社小学校に避難中のW.S姉を寸時訪問、祈り別れる。

 芦屋・西宮の家屋倒壊の酷さは目に余るものがある。

 午後、中央区園長会が当園で開かれる。

 居住不能で疎開した子どもが多く、各園とも存立・開園の見通しは暗い。

 オリンピア幼稚園の園児が一名死亡。

 建物被害の多い園、避難所になっている園、子どもに笑顔を取り戻すため小学生の子ども共々に部分的に保育再開の園など様々。

 差し詰め職員給与をどう手配するか等々、悩みは多い。

 いずみ幼稚園は10数名で短時間保育を26日より再開、石井幼稚園は23日より数名で再開。

 事務室は会員消息収集に努力。

 教団・原忠和議長、兵庫教区・北里議長が来訪。

 問安の電話多し。


1月28日(土)震災から11日。

 奥牧師の柩出棺。

 神戸新聞記者来訪、宗教と震災につき取材とのこと。


1月29日(日)震災から12日。

 朝、四日市私立幼稚園連盟のY.Y氏より神戸私立幼稚園連盟への救援物資受け取りの要請あり、2トン車の荷物を保育室へ搬入。

 神戸真生塾より崖崩れ心配との報あり、富川和彦兄を派遣。

 主日礼拝。説教「街を守る」岩井健作。

 礼拝後、臨時役員会(報告を週報に掲載)。

 公益社団法人アジア協会アジア友の会より、水を蓄えるポリエチレン容器100個、生鮮野菜が届く。花隈自治会を通して被災住民へ。


1月30日(月)震災から13日。

 教団・原議長他役員、菅澤邦明牧師ら教団「阪神大震災」救援対策本部の委員、土肥衆議院議員らと共に貝原兵庫県知事と県庁で面会。

 避難者仮設住宅の早急な手配につき、県との協力のルートの設置を要望する。

 1月30日現在の県の応急仮設住宅計画戸数は13960戸、公団委託分が5000戸、計18960戸。

 うち神戸市の計画は、6751戸、うち発注済戸数は1013戸、11箇所。

 避難者の要望7万戸にはほど遠い数であることを痛感。

 教団が提供を目指しているカナディアン・アーチハウスのモデルを建てる場所につき、緊急要請があり。

 問安者、東京・広島・岡山より。


1月31日(火)震災から14日。寒気強し。

 県の住宅建築課 Yさんを菅澤牧師と共に訪ねる。

 同牧師の熱心な要請により都市住宅部に県と民間との窓口を作るとの約束を得る。


2月1日(水)震災から15日。

 教会よりの第二便発送のための宛名書きに婦人会有志来援。

 神戸私立幼稚園園長会の帰途、須磨教会を問安。

 この地区の被災の厳しさは、予想をはるかに超えていた。

(岩井健作)


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