天災と責任 95.2.12

説教 於神戸教会 1995年2月12日
震災から26日目

マタイ 5:1-8

 朝日新聞のコラム欄に「天声人語」というのがあります。「天の声を聞き、人の言葉を語る」という意味でしょうか。このたびの地震は、自分にとって一体なんであったのかを、しばらく時が経ちますと、私はしきりに思うようになりました。ある方は、この地震で人の心というものがほんとうによく見えた、と申しておられました。
 西宮の甲子園町に住んでいる、かつて作品『戦場の村』を残したジャーナリストの藤木高嶺さんは、こんなことを書いています。

 「この付近では、海岸に近い旧漁師町にいわゆる庶民というか『金持ちではない』階層が住み、戦前からの帰化した朝鮮・韓国系の住民も多い。で、水道が止まった。豪邸には、井戸で地下水をくみ上げ、池でコイを飼っている家もある。これは大いに頼りになるはずだが、周囲の人々に提供する気配は全くない。身内・親戚だけにコッソリ運ばせている様子がわかる。薄情だなぁ、エゴイストだなぁ。ところが、『金持ちではない』階層の地域は対照的だ。普段から助け合っている。豆腐屋さんだの個人タクシーだので井戸のある家が、誰にでも、地域外の藤木さんたちにも、全面的に開放した。たくさんの人々が水を求めてくるので、井戸のモーターが動きっぱなしになって焼ける。冷やすために一定時間休むと、その間は、近くの井戸が交代で給水した」

 これは強いて題をつければ、「庶民の人情と金持ちの非人情」という話でありますが、これに類するたくさんの話をみなさまもお聞きになったと存じます。現に、私どもの教会の石井幼稚園の井戸は、ご近所の方々のため、モーターを冷やして用いるほどにお役に立ったそうです。一生懸命そのようにお働きになった方々がおありと存じますし、また逆に、他の人が見てそうだという訳ではなくて、自分で自分のエゴが見えてしまってやり切れないという心の経験をお持ちの方もあろうかと存じます。「主よ、主よ、汝もし諸々の不義に目を留めたまわば、誰かよく立つことをえんや、されど汝にゆるしあらば…」という祈りを心のうち密かにお持ちの方々があろうと存じます。

 震災は何であったか。天の声を聞き、人の言葉を語るというならば、ある方にとっては価値観の転換であろうと存じます。

 これもどこか、雑誌の手記で読んだ覚えのある記事ですが、紙一重で命が助かり、水がない、食料がない、という幾日かの修羅場をくぐり抜けた女性が、交通が回復して食料を仕入れに大阪に出かけた時、何事もなかったような街を異様に感じ、「淀川の向こうは天国なのに私たちの側は地獄なのだ」と、地震前には魅力的で、欲しいなと思わせたショーウィンドウの商品が自分とは疎遠になってしまった。「命だけあれば良い。物や財産なんて、何の意味もなくなる瞬間もあるのだから」と価値観が転倒してしまった気持ちを書いておられます。

 私の親しい、Nさんは、長田区で不動産業をしておられましたが、収入源のビルが二つとも全焼し、資金として借り入れていた、何億という借金だけが残ったということですが、再建をしようにも、建物の再建が地域的に凍結されてしまい、実業の上ですら考え方を転換せざるを得ない。もはや、自分の力や努力で回復できるものではなく、別な視点で、街づくりに協力していく中で解決しなければならないという居直りをしてみると価値観が変わってくると語っておられました。

 今回の地震が私たちにとって何であるか、を問う時に、「天声」すなわち天の声を聞く、という面と「人語」すなわち、自らの言葉を語るという二つの側面があるように思います。
 例えば、旧約聖書の創世記には洪水物語というお話があります。天の声、神の声を聞いて、ノアは洪水に備えて箱舟を作ったというお話です。教会学校で私はこんな歌を習ったのを思い起こします。

 水が出るから 備えをせよと
 神さまからの お告げを受けて
 海も見えない お山の上で
 ノアの爺さん 舟つくり

 天の声を聞くということは、「海も見えないところで、舟を作る」ことです。舟が効率よく商業に役立つということではなくて、人間も動物も、助け合って存在するために、備えをするということです。建築家の安藤忠雄氏は「都市の公共性」という論考の中で、「今回の地震による大災害は日本全体に課せられた試練だ」と言っています。そして「大自然の変化や運動を人間がコントロールしたり予測することは不可能であろう」ということと、次に「しかし、それによる災害を最小限にするための努力を怠ってはならない」と言っています。天の声を聞く、という点から言えば、「大自然を人間がコントロールする」という考え方を転換し、人間が越えてはならぬ、わきまえを知るということです。聖書の信仰で言えば、詩篇46編に「たとい地はかわり、山は海のもなかに移るとも、我らは恐れじ、よしその水はなりとどろきてさわぐとも、その溢れきたるによりて山はゆるぐとも、何かあらん」と歌われているように、山はゆるぐとも、その背後にある神に委ねるということです。そうして、人の言葉を語るという点から言えば、天の声を聞いた上で、人の努力や責任に関わる領域について、自分の行動と言葉を持つということです。安藤さんのような建築家にすれば、彼が大阪の下町に育ち、その貧しい住まいの環境への怒りや疑問から建築家になった人ですから、都市を再興するにあたり、強靭で安全な都市を作る努力をするということでありましょう。

 私は、先週の後半は、教団の会堂共済組合の委員のお供をして、教区内のいくつかの教会を訪ねる機会を与えられました。須磨教会、兵庫教会、兵庫松本通教会、山手教会、神戸栄光教会、東部教会、御影教会、芦屋三条教会、芦屋浜教会、甲陽園教会、夙川東教会、香櫨園教会、西宮公同教会などです。それぞれの教会が会堂についてかなりの被害を受けています。ある教会は回復するのに自らの力量に余る被害です。各教会はそれぞれの中で立ち上がり、礼拝し、諸教会との連帯を今までより一層強めていくことを目指していますし、さらに、「教会の復興は地域の再生なくしてはあり得ない」(北里秀郎兵庫教区総会議長)との思いをもって避難所に物資を提供するなど、地域への働きをしています。それぞれの教会が、震災後改めて、神の声を聞き、自らの宣教の責任を果たしていく役割の自覚をもっています。

 私たちの教会も、まずはお互いの安否の情報をまとめました。相互に励まし合うとともに、住む家が全壊、半壊、全焼した方々のために手を延べていく必要があるでしょう。遠くに疎開している方々に、情報を伝え、お励ましの声をかけていくことが必要でしょう。都市教会の欠点として、お互いの交わりが密でないとしたら、それを一層厚くしていくことが必要でしょう。幼稚園は、子どもが住宅の問題のため、この地に戻れないで、一層困難な歩みを続けるでしょうから、支えていく責任があるでしょう。また会堂の修復をしてゆく課題があります。塔屋の部分については、今、コンクリートの強度テストをして内側から鉄骨を通して支えて補強する案を業者と相談しています。かなりの費用を要するでしょう。ある会員の方が、目的はオルガンのためとしながらも、当面の資金に一時それを用いることを含めて、この時期にお捧げ下さった(2000万円)ことは、ほんとうに感謝です。また多くの方が匿名の方々を含めて、当面の災害救援のため、また教団が行なっている募金のため、祈りを捧げ、また救援の物資や献金を献げて下さっていることも感謝です。今、教区では、教区総会が開ける規模の教会はたった一つ、私たちの教会が残った訳ですから、そのためのご奉仕や葬儀、結婚式のためにも、開かれた用い方をしてゆく責任があるでしょう。すでに頌栄保育学院は、卒業式の場を安全のことも考えて、学院から当教会へと移されました。地域の被災者との関わりでは、今、アジア協会などの働きのため、物資の集積場所を提供していますが、他団体と協力して、長期にわたる働きがあるでしょう。教会は、そのために、新たな隊列を組み直していく必要もあるでしょう。色々な課題があります。

 今日、私たちは、マタイの福音書の山上の説教を朗読いたしました。そこには、「幸い;マカリオス」という言葉が出てまいります。この語は40の使用例のうち半数が共観福音書にあり、特に、貧しい者、飢えたる者、悲しむ者に対して来たるべき神の国と彼らの困窮の終わりを告知する旧約の伝統を受け継いでいます。もし幸いということがあるなら、悲しむ者、貧しい者、泣いている人たちが幸せを感じなくて、本当に幸いというものがあろうか、これらの人の心を自らの心とするつながりの中にこそ幸いがあるのだ、という逆説的意味合いをもってイエスが説教したであろう言葉として、福音書では伝えられています。このマカリオスを「幸福」(glucklich)とは訳さないで、「救い」(selig)とルターが訳したことは有名であります。

 震災が媒介して、人と人とのつながりの暖かい話があることはたくさん語られています。もちろん、人の心の底が見えてしまうような話もたくさんありますが、その底が割れて、人の心が神の国の救いにつながっているような話はたくさんあります。天声人語を読んでいて、以前にも増してそのような話が取り上げられているような気がしてなりません。また、ジャーナリズムの記事にもそのようなものが拾われていることは、救いです。いくつか紹介して終わります。

 「地震から1週間ほど経った日の深夜。真生塾に30代後半くらいの女性が飛び込んできた。赤ちゃんの時に手放した娘が心配で静岡から車を飛ばして、やっとの思いで真正塾に辿り着いた。すでに寝入っていた小2の女児は、突然現れた「母」に戸惑いを見せたが、娘の安全を確認して満足したかのように女性は再び姿を消した」…母と子の結びつきを報じています(「神戸新聞」1月30日の記事)。

 「今まで布団で寝るということをごく当たり前のことと思っていましたが、これさえも幸せなことなのです。母親と何気なく交わす言葉、手を洗う水に。…毎日毎日何気なく送ってきた日常生活が実は非常に脆くて、いつ壊れてもおかしくはないのだ、という覚悟を胸に1日をかみしめて生きてゆこうと思いました」(「天声人語」1月26日、相模原市に住む22歳の学生丹波優子さんの投書)。

 「いざという時、人は互いに助け合わねば生きられないことを地震は示した。家が崩れた時、人に声を聞いてもらっても、人の手がなければ救い出してもらえない」。阪神大震災の被災地では、いろいろな形で助け合う人たちの姿が印象的であった。

 私は神戸大学の早川和男さんという方の論考を「週刊金曜日」という雑誌で読みました。この方は、市民不在、オール与党、行政主人公の、神戸市都市経営が生み出してきたあり方を批判してきた方ですが、ものを考え、発言する市民の大切さを訴えています。こういう視点から言えば、今まで、そういうことに気づかなかった責任も問われているように思えます。

 しかし、そういう視点を含めて、この震災が、神の語りかけを含み、また、私たちの責任を呼び覚ましているものだと受け止めていく時、亡くなった方や家を失った方に応えていくことができるのではないかと信じます。祈ります。

 父なる神さま、私たちの街には、悲しみが満ち満ちています。また、沈み切った悲しみに立たない為政者や指導者への怒りが満ち満ちています。
 しかしなお、悲しむもの相互の内うちに、笑みを与え、交わりを与えてくださっています。イエスがそういう方であったことを思うと励ましと力が沸き起こります。混沌とする震災の只中を、この週も、意志的に生きることを導いてください。そして、自分に与えられている分の責任を生きるものとしてください。
 主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン