「婦人新報」1984年12月号(日本キリスト教婦人矯風会)
「みことばに学ぶ」欄掲載(p.22)
(神戸教会牧師5年、健作さん50歳)
公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。(アモス書 5章24節)
この欄の原稿が遅れ編集者に大変ご迷惑をかけてしまった。遅れついでという訳ではないが、新年早々の訃報にまつわる思いを聖書の言葉に託して書かせていただきたい。
自分にとって関わり深い人の、その生と死によって裏打ちされている聖書のことばというものがだれにもある。私にとって冒頭のアモス 5:24の言葉を裏打ちしている人といえば、この1月5日、大阪の旅先で急逝した故山田守牧師のことを思い起す。氏は1932年生、1984年逝去、51年の生涯。関西学院神学部大学院を卒業、27年間、山口県防府教会の牧師だった。その間「日本基督教団戦争責任告白」が出されるはるか以前から、「戦争責任」の実質化をめざして説教と牧会を一貫させ、教会の附属幼児施設では子どもの生活と文化を守る実践をし(『園長先生の家庭通信』山田守、日本基督教団出版局 1980)、地域の関われる限りの、教育、人権を守る運動にラディカルな問いとおおらかな人柄をもって身を挺した。死ぬまで長きにわたって日本基督教団常議員など各委員、西中国教区総会議長の激職にあった。そして7人の「我が子ら」を自立性と連帯性豊かに養い、また育てつつある。氏が20年余り前に研修会でアモス書5章の聖書研究で、「神の義」を人間の歴史と世界の救いの根底に据え、個人化した「祭儀」へと傾斜している「キリスト教」批判を展開したことが忘れられない。しかし大事なことはその先にある。言うだけなら誰でもできる。難かしいことは思想の生活化であり、生活の思想化である。その相克に耐えて生きるところに信仰者の「みことば」への聴従がある。氏の聴従の姿が身近な者に「みことば」の裏打ちを覚えさせるのである。
葬儀の日、出棺を待つわずかな間、中谷康子さんと共に涙しつつ故人を偲んだ。冒頭の聖句の心に迫り来るものを覚えながら。
(神戸教会牧師 岩井健作)

