使徒たちの手により(1978 説教要旨)

1978年1月8日 岩国教会礼拝説教
1978年1月15日 岩国教会週報「先週説教より」
使徒行伝 5:12-21

(岩国教会牧師13年目、退任3ヶ月前、健作さん44歳)

”多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。”(使徒行伝 5:12-21、口語訳)

 使徒行伝を流れている一つの面は、使徒たちが聖霊の導きによりユダヤ当局者たちの迫害にもかかわらず、十字架につけられたナザレのイエスを神の救いの出来事として力強く伝えたということです。今日の聖書の箇所でも、20節には釈放されると再び「宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」という言葉に従って「宮」で教える強い使徒が画かれています。「宮」は「律法」の象徴です。律法の宗教の聖域です。律法の問題点を根本的に問題にする方向性は現代では体制を支えたり補完する宗教の在り方を問う方向性でしょう。しかし、使徒たちの働きをそのようなものへと促した背後には12節から16節までに記されている「病人や汚れた霊に苦しめられている人たち」の「いやし」があります。「しるしと奇跡」があったからこそ「宮」への問いかけもあったのです。「しるしと奇跡」は神の恵みと力の現れであります。生活が神の恵みのもとに変革される出来事です。そして、注目したいのはそれが「使徒たちの手によって」なされたという聖書の証言です。手は腕ではありません。手は確かに象徴的には人間の自己表現や力を表します。しかし、腕が力の方向性ならば、手はもっと微妙な関係性を表しています(手についての諺を考えるとよくわかる)。そして「手くせ」「手相」などというように、手は人の顔と同じように個性をもっています。使徒たちの手もきっと変化し難いアク(灰汁)を持っていたでしょう。その手が用いられて神のわざがなされてゆくところに、教会を通しての働きがあります。自分についてもまた他人についてもそのことを信じる信じ方が長い間かかって訓練される場としての教会につながっていきたいと存じます。

(1978年1月8日 岩国教会礼拝説教 岩井健作)

BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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