1989年11月12日、降誕前第7主日
聖餐式、幼児祝福式(幼児18名)
東京出張:11月15日(水)〜17日(金)、
教団「沖縄合同とらえなおし」特設委員会、常置委員会出席
(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん56歳)
幼児祝福の祈り
いつくしみ深い天の父なる神
今朝は、主の体なる教会の肢(えだ)につながる兄弟姉妹の家庭に与えられた、幼な子たちを覚えて礼拝を守っていることを感謝いたします。
”だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない”(マルコによる福音書 口語訳)
と主イエスは教えられました。
幼な子の躍動するいのちと存在そのものが神の国の徴(しるし)であるという、この奥義を悟る感性を、私たちに、そして今子育てをあなたから大切な務めとして与えられている親たちに、豊かにお与え下さい。
それぞれの家庭での幼な子の成長を、今日まで守って下さったことを感謝いたします。
今私たちの世界は、子供を囲む環境が、これから幾世代もかかって修復しなければならない程に、歪んでしまっています。
あなたのみこころに添うように、親としての、そして先立つ世代としての責任を果たす者となさせて下さい。
ここに集う親たちは、幼な子が「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書 12:1)という聖書の言葉の通り、わが子が主イエスに従う者となることを願っています。
どうかその心を受け入れて導いて下さい。
幼な子たちが主イエスの子として、だれとでも、世界中の子供達と友だちになっていくように、育てて下さることを切にお願いします。
この祈りを主イエスのみ名によって聞きあげ給え。アーメン
エペソ人への手紙 6:1-4について
このテキストについて、三好博(浪花教会牧師、元神戸教会伝道師)が『説教者のための聖書講解』(日本基督教団出版局 No.41)に書いている。
エペソ書は、初代教会が、ローマ帝国に組み込まれていく初期カトリシズムへと傾いていく前段階の手紙であるだけに、そこに述べられている倫理的教えも、その時代背景を考慮して見なければならないのであろう。
三好氏の指摘も注意深い。
親子関係は年齢と成長に応じて微妙に変化していく。
「児童期から青年期にかけて、子供は親を乗り越えようとし、さからったり、反抗したりする。反抗の姿勢のなかに成人に向かうばねを宿しているのである。」
元来、親子関係をモーセの律法の「父母を敬え」に位置づけたのは、縦秩序(世俗権威への従属)の是認ではなくて、むしろ、それを批判していく、神秩序(神を敬う故に隣人を愛する)の確立であった。
だから、このテキストの中心点も、「主にあって」(1節)、「主の」(4節)に強調点を置いて読むべきであろう、と三好氏は言う。
賛成である。
「主=イエス・キリスト」を基軸として親子関係を考える姿勢が、わが教会でも各家庭に根づいているのか、そこがのこのテキストから問われるところである。
(1989年11月12日 神戸教会週報、岩井健作)
1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)