暦の終り(1989 説教補助)

1989年11月19日、降誕前第6主日

(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん56歳)

ルカによる福音書 9:57-62、説教題「暦の終り」岩井健作


 もう11月なので次の手帳を買いに行った。

 昨年までは、見開きの1ページが、日曜日から始まって土曜日に終わるというのが一つ二つはあったが、今年は遂に姿を消した。

 月曜から始まって日曜に終わるものばかりだ。

 六日働いて七日目は「安息日」というのはユダヤ教の考え方だが、高度の情報化社会でも、日曜日は終わりになるらしい。

 時間に関わる生活意識をどこで区切るかは、社会習慣にもよるが、またその人の生き方にもよる。

 小さい時から家庭や日曜学校で、一週間というのは、キリストの復活日を記念する日曜日から始まるのだと習慣づけられた私にとって、手帳の下側の日曜日は無意識のうちに次ページに続いている。


 世俗の季節暦や生活行事暦と表裏一体でそれぞれの宗教は、その宗教の暦をもつ。

 キリスト教会も信徒の信仰生活を配慮して伝統的な年間暦をもつ。

 ”教会暦”という。

 キリスト教もある面では混合宗教であるから、それはユダヤ教や伝播した地方の民族の生活暦を吸収しながら発展した。

 初代教会で最初に確立した祭典は”復活祭(イースター)”だという。

 しかしこれも、ユダヤ教のパスカ(過越)の再解釈・福音化として、イエス・キリストの十字架と復活を記念する日となったらしい。

 「主の日」は旧約の「主の審判の日」ではなくて、「小復活日」としての意義を担った。

 ”レント(受難節・四旬節)”が加わり(2〜3世紀)、今の教会暦の形は14世紀頃にできたという。

 暦は季節と一体なので円環ではあるが、終わりと始めで区切られる。

 その区切り点は、連続的な時(クロノス)と、区切りの時(カイロス)が”交叉する時”でもある。


 人間の実存を連続的な全体とみなしている時には、カイロスは頭では分かっていても、真に実存であるとは言えない。

 しかし、日常性を切断するような切り込みで訪れる出来事は、人をクロノスの外へと引き出し、クロノスに埋没出来ない実存として目覚ましめる。


 福音書に収録されたイエスの言葉の中で「諺(ことわざ)言辞」というものがあるが、その中で最も急進的な言辞は、ルカ 9:60a(冒頭に引用の箇所)、マタイ 5:39b-41だと言う(ノーマン・ペリン、新約聖書学者)。

 これは倫理的要請ではなく「聴衆をゆり動かして、自分の実存を連続する全体であるという考えを捨てさせ、その実存について、本当には、その実存に基づいてなされる判断をくださせる言葉だ」と言う。

 暦の終わりは、それほどではないにしても、極めて実存的な時への促しがある。

 今年ももうすぐ”アドヴェント(待降節)”だ。

(1989年11月19日 説教要旨 岩井健作)


1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)

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