「聖書と教会」1977年2月号 p.28-29(日本基督教団出版局 1977)
企画”10年後の私の教会”欄掲載
(岩国教会牧師12年目、健作さん43歳)
転任する牧師を見送るプラットフォームは、近郊の教会の人たちでにぎわっていた。知人らと雑談を交わしつつ待つ間、近くで友人の牧師が婦人会のことで年輩の婦人とやりとりをしている。それ以上話を続けると何やら情念の領域にとめどもなく引き込まれそうになる気配を押さえるようにして「ああそうですか」という彼の言葉が会話に終止符を打っていた。もう久しい前のことなのに、どうしてかその場面が強く印象に残っている。日々の教会はどうしてこうも婦人たちとかかわりを持たねばならないのか、という感慨を僕が持っているせいかもしれない。例外はある。だが女性が漂わせる情念や哀愁の世界はどうも苦手である。けれどもまたそれを避けて日々の教会はない。「鈴木正久牧師が一兵卒で戦場にあったのなら戦責告白もなじめるのですが」といって、新たなる教会の指導理念なるものに警戒反応を示してくれたのも婦人であったし、戦責の思想性とはおよそかけ離れた生活の場にありながらも、8月15日に近い祈祷会の席に、兵卒として死んだ息子の金鵄勲章を並べて涙とともに靖国反対のために祈ってくれたのも婦人であった。そして老姉が「独りになる勇気」という説教をしみじみと味わいましたよと語ってくれた笑顔の面影が浮かぶ。
僕は、教会の社会的責任が大事だということを言い続けてきたし、今も言っている。地域の教育、市民、反公害、平和といった諸運動、社会奉仕、さらに日々の教会の奉仕を含めて、婦人たちの底力は発揮されている。しかし、それが情念と哀愁の世界の淀みと無縁でないことにも気づかされてきた。女性解放運動も例外ではないであろう。女性解放論者だった友人の牧師は、憂いを込めたやさしさで女性の側に立ち、理解者としての秘められた自信を持っていたようだ。だが、愛憎の谷間に足をとられ仕事を去った。身近なそして日々の教会の出来事である。婦人たちには男性のお上手によっては翻弄されない愛(かな)しさがある。それはまた理念(イデー)では動かないし、また動いたからといって気を許すと手痛い傷を負わせられる体質でもある。こっけいなことだが、僕はかつて男子として最初にして最後の、教団婦人専門委員をY牧師と務めていたことがある。教会の社会的責任ということが日常的になじまない四国教区の修養会を回って、論理をかざし直截にぶって歩いた。ある刺激にはなったであろうが、むしろ反発を招いた違いない。だがもう忘れてしまっていた。十年余りたったある日、四国のある婦人から電話があり「あの時自分は一番強く反発したのだが、近ごろあなたの言ったことがそうだと思えるようになったのでお知らせしておきたい」との伝言であった。畏れと温(ぬく)みを伴った日々の教会の体験である。
過日、中谷康子さんを地区の婦人集会で招いた。死亡した自衛官の夫の護国神社への合祀拒否を訴訟で争っている人である。会ってみるとパンフの紹介とはまた違って老人ホームの調理士の「おばさん」である。彼女は国家相手の戦いの経過を「お膳立てができていたような気がする。いい意味でがんじがらめだった」と信仰の証しとして語る。が、家族主義脈々たる中谷家を夫の死後やむにやまれず出たあたりの苦労話は圧巻である。「やはりそこまでお話ししなければいけないでしょうね」とあえて語った話は、この訴訟の前史であり、理念による運動支援だけでは越えられない壁をくずす力を持っている。鶴見俊輔氏は「自衛官合祀訴訟は信仰の自由を守るためのたたかいというだけでなく、父に対し妻の立場からあらそわれているというもう一つの思想的側面を持っている」(『いくつもの鏡 – 論壇時評 1974-1975』鶴見俊輔、朝日新聞社 1976, p.107)と言っているが、それは思想的というより情念の世界での戦いであり、このあたりへの共感が根づくか否かが、支援の広がりと深さに関係するだろう。それも年月を要するに違いない。
僕は、しばしば教会の共同性とは何なのかという問いの前に立たされる。日本の教会の三分の二は婦人によって構成されているという事実の前に、理念や象徴における共同性の確かめを持つことには絶望的にならざるを得ない。情念や哀愁の世界にまで立ち入って共同性を志向し得るとすれば、それはどういうことか、としばしとまどう。そして、それはかろうじて「産み育てる」という待ったなしの課題に向かってくびきをともにする共同性だと思うようになった。一緒に歩んでいてひどく違っていると思うことしきりである。が、それでよいのだと思う。情念と哀愁が渦巻くところでしか人は育たない。理念で確保しようとする共同性は、結果であって過程ではない。婦人たちとのかかわりでこんな思いも芽ばえた。
こんな思いを温めているある朝、ひどく早く目がさめてしまったので、そっと床をぬけ出して山に向かってみる気になった。初冬の木立に静まる急な山道を登ると、風化した地蔵が道行きに現れては後になっていく。けわしいが古い道である。この町の見知らぬ昔の婦人たちも、家のしがらみに耐えて生きるよすがとして、あるいは神仏に事寄せて、また祈願を胸にこの坂道を登ったかもしれない、などと思ううちに展望台につく。標高300メートルと書かれているこの場所から見下すと、町にはまだ街灯がまたたいている。が、朝はもう始まっている。蛇行する錦川は朝もやに包まれ、はるか河口の三角州のあたりの米軍基地もかすんでいる。いつの間にさえずり出したのか、鳥の声に我に帰り、帰途につく。尾根伝いに別な道をおりる。沢と尾根を横断しているこの道はのぼったり下ったりしているが、変化に富み、思わぬところで普段は下の正面からしか見ていない城を斜め下にすえた風景に出会う。画題としての構図をなしている。日々の教会は平凡である。けれどもだれかが、どこか別のところから眺める視点を得たとき、それはそれなりの構図をなしているかもしれないなどと思いつつ山を下った。
(岩国教会牧師 岩井健作)


