コロサイ 2:19 による黙想(1977 週報)

1977年1月30日 岩国教会礼拝 「神による成長」 岩井健作
コロサイ 2:16-19
1977年1月30日 岩国教会週報掲載

(岩国教会牧師12年目、健作さん43歳)

”キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである”(コロサイ人への手紙 2:19、口語訳)

「キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない」。パウロが論駁している人たちは、キリストを認めている人たちである。けれども、キリストの中に固く留まっていない人たちである。キリストそのものに留まるということと、自分のキリスト理解なるものに留まることとは似ているようで異なる。自分中心に考えていることの適当さが砕かれていくことを通してしか留まることのできないものが「キリストなるかしら」である。18節には「天使礼拝」という言葉があるが、カルヴァンは「悪霊は常に天使の名目でその欺瞞を飾る」と言っている。教会の中心的部分にこの欺瞞が忍び込んでくることへの戦いが、代々の教会の戦いであった。「肉体」(17節)ではなくて「影」に捉えられてしまってはならない。悪魔は「自分に都合のよい」という曖昧さを放置しておくことにつけ込んでくる。「キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れる」(20節)ことに足踏みさせる。「ここで自分を捨てる」とか「ここでは重荷や十字架を負う」という、自分の行き詰まり地点での翻りの必要から目を逸らさせ、勇気を削がさせる。こんな悪魔とは戦わねばならない。熱心ではあっても自分中心的な求道の仕方、信仰の求め方、奉仕の仕方、礼拝の仕方、社会活動の仕方は、道のりは異なっていてもやがて行き詰まる。たとえ、迂回して彷徨していても。しかし「キリストなるかしら」につながっているところに、神による成長があるというのが聖書の言葉である。(祈り)父なる神、私たちを神による成長の恵みの内に捉えていて下さい。

(1977年1月30日 岩国教会週報 岩井健作)

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