1977年1月16日 岩国教会礼拝説教
1977年1月23日 岩国教会週報「先週説教より」
ヨハネ 1:35-51
(岩国教会牧師12年目、健作さん43歳)
”イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう。」そこで彼らはついて行って…”(ヨハネ 1:39、口語訳)
ヨハネ福音書による「弟子召命物語」の特徴は、洗礼者ヨハネの弟子たちが「見よ、神の子羊」というイエスを指し示す言葉によって、イエスについて行ったというところにある。「ヨハネの弟子からイエスの弟子への転換」は私たちに何を示しているのであろうか。権力と名誉しか志向しなかった暴君ヘロデが支配する悪しき時代に、預言者たちの示した神の義に生きることは容易ではなかったであろう。街を出て荒野でなければ保てないほどの精神の戦いと精進があったに違いない。ヨハネの弟子たちは時代の流れに抗して歩む信仰者であった。今の時代でキリスト者として歩む場合も、ヨハネの弟子的要素を余儀なくされる。だが、そのような者たちが『神の子羊』(この言葉はイザヤ53:4以下の思想から出ている。ヨハネ1:29-36のみにある)という、世の罪を贖う子羊の道へと招かれることで、イエスの弟子へと転換していく。自分が求めようとする信仰でなくて、神がこの歴史の中で成し遂げられる贖いの道へと召されることへの転換が示されている。
教区の社会問題セミナーで講師の山川暁夫氏が、日本の繁栄が韓国・朝鮮の犠牲によって成り立っていることの鋭い指摘と、自分さえ良ければよいという、日本人の意識の問題点を語られた。金芝河(キム ジハ)氏や金大中氏の囚われは、まさに、贖いの道筋につながっている。私たちがこのような「贖いの道」につながる招きがイエスによってなされている。イエスの弟子となる資格は、誰も持ち合わせていない。しかし、招きに応えて「ついていく」ことは許されている。何が自分にとって「ついていくこと」なのか。その決断はどんなに小さくても大切にしたい。
(1977年1月16日 岩国教会礼拝説教 岩井健作)

