1977年1月9日 岩国教会礼拝説教
1977年1月16日 岩国教会週報「先週説教より」
ルカ 2:41-52
”イエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった”(ルカ 2:51、口語訳)
姑に仕えるとか、宮仕えというと忍従や不自由さを漂わせている。しかし、聖書では「仕える」という言葉は積極的な意味を持っている。「仕える」と訳されている言葉の代表的なものが4つある。①ドゥーロス:奴隷(ローマ16:16)、②ディアコニア:奉仕または務め(マルコ10:45)、③ラトゥレイア:礼拝(マタイ 4:10)、④ヒュポタッソー:従う(エペソ5:22、ルカ2:51)。今日の箇所も、ただ、両親に長上の礼を尽くすという儒教倫理の「孝」の感覚で読んではならない。イエスは「わたしが自分の父の家にいるはずのことを」(5:49)と言っているが、ここには歴史を救いの計画の中におく神の主権がはっきりと示されている。この神への信頼の中で今おかれている最も身近な、夫婦・親子といった家族関係を大切にし、自分の分を尽くしていくことが「仕える」ということの意味であろうと思う。
「父なる神(創造主なる神)」への信頼の信仰のあるところでは、「仕える」ことは、たとえ「忍の一字」のようであっても、神が与えて下さる成熟が養われてゆくに違いない。「ナザレの村にて主のすごしし、かくれし三十年(みそとせ)ゆかしきかな」と謳われている讃美歌123番のごとく、両親すら悟ることのなかったイエスの仕え方に学びたい。
(1977年1月9日 岩国教会礼拝説教 岩井健作)

