礼拝と奉仕(1976)

1976年10月17日 岩国教会週報
「先週説教より」マタイ26:6-13

(岩国教会牧師12年、健作さん43歳)

貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。(マタイ26:11)

 なぜ貧しい人たちがいつも一緒にいるのでしょうか。この答えを得られないままに、この人たちと悩みや苦しみを共にすることの緊急性が、マタイ25章34節以下に記されています。「祝福された人たちよ…裸であった時に着せ、…獄にいたときに尋ねてくれたからである」(34-36節)と。イエスは十字架の死に至るまで、すなわち当時の支配者たちが恐れる気持ちを抱くに至るまで貧しい人たちと共に生きられました。奉仕ということが貧しく助けを必要としている人たちへの善意だとすると、それが中途半端な場合、国家や社会の体制はそれをむしろ栄養として食らう怪物のような性格を持っています。その限界を予感しつつなお貧しい人たちが生きるために奉仕が活かされ用いられることが肝要であり、そのことを祈りつつ願うのが信仰です。

 ベタニヤのシモンの家で高価なナルドの香油で、一人の女性が、いま十字架の死を目前にしたイエスに自分の感謝と真実とを示しました。この女性は自らの身と心の貧しさにも関わらず生への充実をこのイエスによって与えられたのですから、彼に真実をお返しするのは当然だと考えたのでしょう。「香油を売って貧しい人たちに…」と弟子たちはこの女性の行為を批判しました。奉仕という形だけを見ています。いま現に貧しい女性と共にいるイエスの真実は弟子たちには見えませんでした。このように、奉仕へと心を向けながら、イエスへの真実(礼拝)に立ち戻らないと相手に届くべき奉仕も形へと堕し易いのが、貧しい私たちの姿です。礼拝と奉仕は紙の表裏の如く分けることができません。「いつ…しましたか」(マタイ25:37)と自分でも気付かないうちに奉仕が身に付くほどに、礼拝への真実をもって生きていきたいと思います。

(1976年10月10日 説教 岩井健作)


(報告欄より)
 共同の祈り「中谷康子さんと訴訟のために」
 礼拝後、岩国東分区役員研修会 発題準備会、婦人会、亀の里草刈り奉仕、夕礼拝。
 分区牧師会 18日(月)
 岩国地区婦人会連合 秋の例会 19日(火)
 ・お話:中谷康子さん(山口信愛教会員)
 岩国キリスト者平和の会 19日(火) 中谷康子さんを囲んで
 祈祷会・聖書研究会 20日(水)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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