1976年2月1日 岩国教会週報
「先週説教より」ルカ14:15-24
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
さあ、おいでください。(ルカ14:17)
「盛大な晩餐会」の譬え話は、三つの部分に分けられる。私たちには最初(ルカ14:16)と最後(21-24)の部分はよくわかる。16節には「大ぜいの人を招いた」とある。空の鳥を養い、悪しき者の上にも良い者の上にも太陽を昇らせてくださる天の父(マタイ5:45)への信頼と招きの中に、つまり「大勢」の中に、私たちもあることを根底で信じていればこそ、ここはよくわかるのである。また21節以下は「貧しい人や体の不自由な人、盲人や足の不自由な人」(共同訳)が招かれている。私たちはイエスがこのような人の友であったことを知っている。そしてイエスの十字架がこうした人々との交わりを壊す歴史の罪を贖(あがな)っていく働きの根拠にあることも知っている。さて、真ん中の部分はどうであろうか。ここでは土地を買う(生活設計)、牛を買う(仕事)、妻をめとる(家庭)(ルカ14:18-20)ことで、招かれながら「招きを断る人」の姿が出ている。多忙な私たちは、ここでは「招き」に共感しないで、招きを断る人の気持ちとその理由とに共感しないであろうか。今日の箇所の譬え話において、真ん中の部分では「招きを断る」という逆の事態が描かれている。信仰は大義名分ではない。枠組が逆になる生活の中で、もう一度問い直し考え直して、生活にこと寄せて忍び込む自己中心・自己満足と戦い、そこから自由にされていく過程を証しとして見直していくことが、福音への招きである。ある説教者は「間違った順番を付ければ神の怒りが望む」と言っている(『イエスのたとえ話講解:あなたがたは兄弟である』 ヴェルナー・フェンザック著、聖文舎 1975, 同書p.68)。生活の一コマ一コマに信仰への招きのあることを忘れないようにしよう。いや、それが示されるまでは、忍耐・希望・祈りをもって生活に取り組むことを心がけていきたい。
(1976年1月25日 岩国教会 岩井健作)


