私たちは主の民《詩編 95:1-11》(2013 礼拝説教・新年)

2013年1月6日、降誕節第2主日、
明治学院教会(299)新年礼拝

(明治学院教会牧師 8年、牧会54年、健作さん79歳)

詩編 95:1-11、フィリピ 3:12-14、説教題「私たちは主の民」岩井健作

 ”主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない”(詩編 95:7、新共同訳)

1.前半部:詩編 95編1−6節

 この詩編はユダヤ教の伝承によれば、新年にエルサレムの神殿に来た巡礼者に呼びかけられた言葉であったと言われています。

 1−2節は、祭司が「主に向かって喜び歌おう」など、呼びかける4つの命令文によって構成されています。

 それに対して、巡礼者は音楽に合わせて、3−5節の信仰告白、神への讃美を高らかに唱和したと思われます。

 招きと応答のはっきりした詩編です。

 「深い地の底も」(4節)、「山々の頂きも」(5節)は、古代人がこのような場所には諸々の力が働く所として恐れていたことが前提にあります。

 しかし、その場所も「御手のうちに」あって「主のもの」だという信仰の表明です。

 現代的に言えば、主体的・意思的な生き方を阻むような「観念への閉じ込め」をもたらす得体の知れない領域(世間、情報操作、迷信)などはないのだ、と力強く告白されています。

 新約聖書で言えば、

”体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。”(マタイによる福音書 10:28、新共同訳)

 と通じるところがあります。

「陸も」(5節)これは原文では「乾いた地」です。

 出エジプトの紅海脱出の時、エジプト軍に囲まれた絶体絶命の時、神が切り開いた”乾いた地”のことです(出エジプト 14:10以下)。

 おそらく「天地の創り主」という信仰よりも、あの「解放の神」が強く思い起こされたのです。

 6節「共にひれ伏し、伏し拝もう」は、ムスリム(イスラム教徒)のように平伏して礼拝した様子が伺えます。

2.後半部:詩編 95篇7−11節

 7−11節は、神殿で語られた神の託宣です。

”主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。”(詩編 95:7、新共同訳)

 と決断が迫られます。

「メリバやマサ」(8節)《荒野で水を求めた民の不信に、途方に暮れるモーセに主が岩を打たせて水を与えた話。主を試みる民の頑なさを象徴する。出エジプト 17:1-7》の故事は申命記では繰り返し言及されます。

 10節「40年の間、わたしはその世代をいとい、心の迷う民と呼んだ。」という歴史の暗部を持つ民です。しかし、つぶやきを聴き続ける神がいまし給う。

 つぶやきを記憶して、悔いて、主に聞き従う決断をすることが「今」を自覚させる。

「主に養われる群れ、御手の内にある羊」の自覚があって初めて、悔いを語ることができる。

”心を頑なにしてはならない。”(8節)

 羊と羊飼いのイメージは旧約の大切なイメージである(詩編 23:1、28:9等々)。

 巡礼者の日常はつぶやきの多い日々であったであろう。

 新年の初め、そのつぶやきを神の御前に進み出て、そして委ねて、区切りをつけて、整え、歩み始める時(カイロス)とする詩編である。

 新年という時の巡り(クロノス=時計が刻む時)を、決断の時(カイノス=機会・好機・出会いの時・神との関わりの時)とするのがキリスト者の信仰であろう。

3.決断の時

「下の子が学校に行けなくなり、発達障害と診断されました。もっと早く気が付いてあげればなどと悔みますが、主の栄光があらわされるためとの御言葉を信じています」

 かつて私が牧師をしていた教会の教会学校で育った方からの年賀状でした。

 クロノスでの悔いをカイロスに変えて生き始められた証のこの添え書きが、心に染みました。

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