二つの共同体モデル(2000 礼拝説教・神戸)

2000.3.26、神戸教会 礼拝説教

(健作さん66歳)

マルコ 9:33-37(新共同訳見出し「いちばん偉いもの」)

 今日、お読み戴いた聖書日課の箇所は、イエスの弟子たちが「だれが一番偉いか」という議論をしていた時、イエスが「一番偉くなりたい者は、仕える人になりなさい」と教え諭したという物語です。

 聖書を読みたいのだが、どこから読んだらよいか、という方に、私は、マルコによる福音書から読むようにとお奬めしています。

 そのマルコ福音書ですが、その構成を大まかにみておきますと、大きく三つに分かれます。

 最初は、ガリラヤの湖のほとりでのイエスの活動です。1章から8章前半までです。

 次は、ガリラヤからエルサレムに向かうイエスです。8章の後半から10章までです。ここは受難へと向かうイエスが記されています。

 第三番目は、エルサレムにおける受難のイエスです。

 今日の所は、二番目のエルサレムに向かう場面です。ここには、三回、イエスの受難予告があります(8:31、9:31、10:33-34)。今日の箇所のすぐ前、マルコ9章31節をみますと「人の子は、人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(新共同訳)とあります。これは、イエスの「人々に仕える姿勢」をあらわしています。

 そのすぐ後に、弟子たちが「だれが一番偉いか」について議論をしたのですから、弟子たちはイエスのことが少しも分かっていなかったことになります。

「弟子たちのイエスへの無理解」のテーマは、マルコを一貫して流れるテーマであることは、これまでにも触れてきましたので、よくご存じのことと思います。

 恐らく、9章33-35節の記事と、36-37節の幼な子を受け入れることの記事とは、別々の伝承であるものを、マルコが結び付けたものと思われます。

 ここでは、33-35節の「順位争いの人間関係モデル」と36-37節の「幼な子受容モデル」とがはっきりと対比されています。

 前半で注目したい言葉は「一番先」”プロートス”という言葉です。第一人者とも訳され、暗に、当時のローマ皇帝を意味する言葉でした。

 つまり「社会的身分関係」に関わる言葉です。また「すべての人の後になり」も、グループの一番終わりという意味ではなくて、社会的に貧困・抑圧・下積みになっている人のことを意味しています。

 イエスが人間関係について語っている時、そこには社会での関係がいつも視野に入っていたことを、心に留めておきたいと存じます。

 そのことからみますと、幼な子を受け入れることも、天真爛漫な可愛い者を受け入れるということではなくて「社会関係の中で阻害されている幼な子」を受け入れることを意味しています。

 当時のギリシャ・ローマ世界では、父権(パトリアボテスタス)の伝統があって、自分の子供を残酷に罰したり、質に入れ、遺棄し、殺す権利さえあったようです。それほど子供は「価値のないもの」でした。ユダヤ世界でも子供は神から与えられたものという理解はあったものの、大人の思いのまま支配されていました。

 しかし、イエスは幼な子をありのままに、無力・無価値・弱く助け無しでは生きられないままで、神との関わりで失われてはならない存在として受け入れたと思います。

 ですから、「幼な子受容」は幼な子を排除するような共同体モデルに対する「挑戦」なのです。「幼な子受容」は「社会的な出来事の射程」を含んでいるのです。

 順位社会、競争社会、利益社会、上下関係優先社会は、それなりに一見強い構造を持っているように見える。

 しかし、人間はいつまでもここに安住は出来ない。力の強いうちはよい。弱者に転落した場合は、ここから切り捨てられていく。

 強者の共同体モデルと名づけるならば、イエスの弟子たちは、この共同体モデルから自由ではなかった。

「一番偉い」。最上級。「論議する」の語は「密かに思い巡らす」の意味。

 イエスの教え、生き方と違うことは彼ら自身が知っていた。しかし、そこから自由ではなかった。単に能力や権威ではなく、信仰の深さ、奉仕の度合い、イエスへの関わりの親密度、などすらも競われたかもしれない。

 その弟子たちに対して、イエスのとった関わりは、35節「座って」「呼び寄せて」教え諭す。「座って」はイエスが改めて神の国のことを述べる時に用いられている。

 ここで注目すべきことは、イエスが

「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて」(マルコ 9:36 新共同訳)

 教え諭したことである。

 ここの所を釈義したある研究者は、ここには”ジェンダー”の特徴があるという。

 性別で考えると、幼な子を抱いている姿は「女性的共同体のモデル」であることを指摘している。

 マルコ福音書では、イエスの受難の最期まで従ったのは、女性の弟子たちであったと記されていることと重ね合せて考えると、ここでも上昇思考を持つ男性の弟子集団が批判されている。その流れの中で、この物語はある。

 37節。幼な子を受け入れることは、イエスを受け入れること、イエスを受け入れることは、神を受け入れること。

 受容が、私たちの経験的な「神との関わり」。根源的には神に受け入れられていることの経験的側面。

 私たちにとって幼な子を抱くというのは、最も温かい人間的行為。自然な行為。その感触の中に神を受け入れることが含まれている。そのことの指摘をテキストに読み取りたい。

 小磯良平画伯は多くの母子像の絵を描いている。

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