問われつつ、聴きつつ、変わりつつ − 差別と被差別の関係(2003 講演・人権・神戸)

2003.1.29、神戸市総合教育センター「人権問題教育研修」

(前神戸教会牧師 -2002.3、川和教会代務牧師 2002.7-、69歳)

Ⅰ.戦争は子供たちにとって最大の人権破壊である

①『戦火のなかの子供たち』岩崎ちひろ(岩崎書店 1973年)、38版(2001年)

「ベトナムでは長いこと戦争がつづいておりました。いまだってほんとうは戦争はおわっていないのです。アメリカの爆弾が、お隣りのカンボジヤの国にまでおとされているそうですから?/わたしは日本の東京のせまい仕事場で、それらの戦争のことを、わたしの体験した第二次世界大戦のことを、こころのなかでいつもダブらせて考えていました。/戦場にいかなくても戦火のなかでこどもたちがどうしているのか、どうなってしまうのかよくわかるのです。子どもは、そのあどけない瞳やくちびるや、その心までが、世界じゅうみんなおんなじだからなんです。そういうことは、わたしがこどものための絵本をつくっている絵描きだからよけいわかるのでしょうか。」(絵本にそえて)

 子供の目を描き分ける絵描き
「牛とあそんでいた/暑い夏の日」
(すごく穏やかな聡明な未来を感じさせる子供の表情)26ページ

「あつい日/ひとり」
(鉄条網のこちらで途方にくれてうなだれる痩せた、はだかの男の子、その目はうなだれ、困惑しきって、どうして良いかわからない力を落としたままだ)。

 表紙、言葉はない。悲しい表情、怒っている、心を固く閉ざしている。

②『イラク − 湾岸戦争のこどもたち』森住卓(高文研 2002年4月)

 フォトジャーナリスト、1988-2001年まで4回イラク取材、湾岸戦争(イラクのクエート侵攻に対して多国籍軍が攻撃、43日の戦争)、最大の犠牲者は子供、白血病や癌の急増、戦前(1988年)死亡者(バスラ市内)34人、(2000年)586人(17倍)多国籍軍の使用した劣化ウラン弾によるとの疑いが限りなく強い。無脳症の赤ちゃん。こどもたちの叫びが出ている写真集。「アラブの子どもとなかよくする会」(伊藤政子さん −医療品・衣料品を援助)の協力。

③『難民の世紀 〜 漂流する民』豊田直巳(出版文化社 2002年9月)

 フォトジャーナリスト、アフガン、パレスチナ、コソボ、ボスニア、インドネシア、クロアチア、ブータン、カンボジア、朝鮮民主主義人民共和国、の難民の実情が写真と文章で描かれている。

 なぜ難民なのか。「戦争で左目を失った難民の少年」p.151、「二週間前に森に入って地雷を踏んでしまったというサッロルさん……と看護を続ける奥さんも疲れきっていた。5人の子供を抱え、まったく先が見えなくなってしまったのだ。地雷はそれを踏んだ者だけでなく、その家族をも巻き込み、その生活をも破壊する……『家族のなかで1人でも地雷を踏んだら、その地雷は家族全員を殺すのと同じなのです。心が傷つくというだけではなく、患者の入院費用や薬代なども払わなくてはならない。ところが、仕事はないし、地雷を恐れて畑仕事もまともに出来なくなっていく。それでも貧しいのだから、1人でも犠牲者がでたら暮らしていけないのです。……農民はどこに地雷や不発弾があるか知ってますよ。でも危ないとわかっていても森や荒れている農地に入らなければ、暮らしていくことも出来ないのです』」(p.150)

④『どうぶつ会議』エーリヒ・ケストナー(岩波書店 1954年)

「大ニュース/ロンドン会議おわる/会議はしっぱい/……」。戦争が済んでもう何年にもなるのに、また新しい戦争のうわさが立っている、……ごたごたが何百年もつづいている……それから学ぼうとしない……人間達は、国を支配し、政治を論じ、会議ばかりやっている……「人間たちの会議が役に立たないのは、会議のせいではない、人間のせいだ。……ということでライオンのアイロス、ゾウのオスカー、キリンのレオポルドは1ヶ月後に動物会議を動物会館で招集することにします。世界中のすべての種類の動物に代表を送るように呼び掛けをします。国境をこえ、流氷にのり、鯨のおなかにはいって、動物会館に集まってきます。絵本をめくっていた子供たちが驚いたのは絵本の動物が一匹もいなくなっていまします。本から抜けだしてしまったからです。動物会館は世界じゅうで一番素晴らしい、一番大きなビルディングです。そこには、伝書バトの中央郵便局、博物館、病院、幼稚園、ホタルの光の工場、なんでもあります。会議では人間たちが仲良くやっていかなければならないことをわからせるためにはどうすれば良いか……が議題です。

 一方、人間達は87回目の会議をケープタウンで開きます。重い書類を抱えて。

 動物会議の目的は「子どものために」です。最初の演説は、白熊のパウルです。「わたしはおおくのことばをついやそうとは思いません。人間みたいに、おおくの言葉をついやすことは意味のないことです。今日ここに我々が集まったのは、人間のこどもたちのためです。なぜか?それは、人間が、いちばんだいじなつとめを、おろそかにしているからであります。われわれは、戦争や、貧困や、革命が、二度と起こらないことを。要求します。」

 一方、ケープタウンの人間の会議では、国々の代表が、大きなテレビのスクリーンで白熊の雷のような声の演説を見つめています。……そうして動物会議から、人間の会議に要求が出されます。国境をなくすことです。人間の会議のミューラー将軍がやってきてそれを拒否します。動物たちはねずみの大群を送って、書類を全滅させます。書類は、一日で何百台もの飛行機で写しが届けられ会議は続行です。動物たちは、次に蛾の大群を送って、すべての制服を全滅させます。「君達が、一つになることを妨げているのは、他でもない制服だ。制服は消えてなくならなければならない、子供たちのために」。蛾の大群は、世界中の制服を全滅させました。しかし、雷将軍ミューラ元帥は、まあたらしい制服で「動物の無理な要求ははねつける!明日までに世界中の兵隊は全部新しい制服をつけるだろう。蛾もバッタも鰐も大砲に穴を開けることは出来ない。……これは政治家たちの一致した考えである。政治家の意志は、すなわち人類の意志である。」と放送します。動物たちはすっかりしょげてしまいます。

 動物たちは、最後の手段に出ます。世界中の子供たちを地球上から隠してしまいます。さあ、ゆりかごもからっぽ、学校にも生徒は1人もいません。どこにも笑い声ひとつ聞こえず、泣き声も聞こえませんでした。親たちは泣きわめき、市役所へ押しかけます。神様にお祈りをしたりしましたが、効き目がありません。大きな鳥がこどもの入った包みを下げて飛んで行くのを見たという人がありました。ミューラ元帥はとうとう軍服を脱いで動物たちとの交渉に入りました。「みんな子供たちは無事です」。人間の知らない、地図にない島や、山、森の中で動物たちは、子供たちを至れり尽くせりの世話をしました。子供たちは「動物たちと大人の会議が、いつまでもまとまらなければいいのに」と言ったほどです。とうとう、政治家は、合意書にサインをします。「我々国々の代表は、次のことを誓う。

1.すべての国境をなくす。
2.軍隊と大砲や戦車をなくし、もう戦争はしない。 
3.警察は弓と矢を備えてよい。警察の役目は、学問が平和のために役立っているかかどうかを見ることである。
4.政府の数と役人の数は出来るだけ少なくする。
5.こどもをいい人間に育てることは一番大事な、難しい仕事であるから、これから先、教育者が一番高い給料を取るようにする。

 政治家がサインした事で、地球をゆるがすほどの喜びが爆発しました。子供たちはこうして帰ってきました。これが新しい始まりです。

著者《エーリヒ・ケストナー》 1899-1974年、ドイツの詩人・作家。ドレスデンに生まれる。貧しい生活の中から師範学校に進学。第一次大戦に招集される。大学卒業後、新聞社に勤める。1928年『エミールと探偵たち』で成功を納めるが、ナチスにより著書を焼かれ、執筆を禁止される。多くの作家が国外に亡命したのに、彼はドイツにとどまる。

「わたしはザクセンのドレスデン生まれのドイツ人だ/故郷は私を放さない/私はドイツで生えた木で、/やむなければドイツで枯れる木のようだ」(詩集『簡単明白』1950年)

「作家は彼の所属する国民が逆境にあってどんなに運命に耐えるかを経験することを欲するし、体験しなければなりません。……どんな危険をもおかすことは作家の職業上の義務です。もしそれによって終始目撃者になることができ、他日、文筆でその証言をすることができるとすれば。」『賢く、それにもかかわらず勇敢に』(1948年)

 執筆禁止。著書は焼かれた。しかし次世代を担う子供たちに期待して、ひたすら子供のため小説を書き続けた。ユーモアあふれる中に、涙を誘い、人生の真実が溢れている。日本でもケストナー少年文学全集8巻が岩波書店から出ている。他に『エミールと三人のふたご』『点子ちゃんとアントン』『飛ぶ教室』『5月35日』『ふたりのロッテ』『サーカスの小びと』等。

Ⅱ、戦争と私

①「戦争」という事柄を巡って、人間の関わりを見る時、大変大ざっぱですが、人々には、四つの関わりがあるように私には思えます。

 第一は、戦争を遂行する人々です。理由はいろいろあるでしょう。正義のためとか、世界の民主主義と平和を守るためとか、国の権益を守るためとか、民族の独立のため等。そんな高尚なことでなくとも、戦争をすれば儲かるという人達がいます。軍需産業・防衛産業・死の商人たちと、それにくっついて生きる人達です。強いものが武力にものを言わせれば、弱いものは仕掛けられて戦争に巻き込まれます。いずれにせよ、戦争を自分のこととしている、またせざるを得ない人たちです。
 今、私たちは、アメリカが是が非でも仕掛ける、イラク戦争寸前にいます。もちろん、アメリカが言うように、フセインの独裁を倒さないとテロの脅威が温存されるかもしれないし、また戦争は石油権益を巡ってなされるのかもしれない。破壊も、人の死も、計算に入って、確固たる信念・政治・軍事の行使として行われる。

 第二は、その戦争に無関心な人たち。成り行きまかせの人々。起こったら仕方がない。しかし、この人達は、結果的には協力させられる人々です。積極的であれ消極的であれ、協力体制に組み込まれざるを得ない人です。大部分の普通の人は、ここに入ります。大部分の人を、ここに追い込むためには、それなりの体制がいります。教育・法律・経済・社会・情報・政治・芸術・宗教・思想の戦争への動員・管理がいる。

 第三は、戦争があまり好きでない人達です。ですが、第二の人と違うのは、ともかく、戦争に協力しないという気持ちや意思を持っておる人達です。それなりの勇気がいります。だからいつも少数派です。しかし、実際の戦争があって、その後始末をしなければならない時は、じっと耐えていた自分の場所から出てきて、いろいろ活動をしてくれます。戦争に反対の声をあげる人達です。

 第四は、戦争でいわれのない被害を被ってしまった人です。殺された側の人々です。虐殺された人々。戦争による難民。軍事性奴隷、いわゆる「慰安婦」。非戦闘員の被害者。原爆被爆者。少なくとも戦争で生活基盤、親しい人を失った経験の人はこの中にはいるでしょう。

 そうして、子供たちは、確実に戦争の被害者になっています。

 保育者は、ケストナーの『動物会議』の動物のように子供たちを守る責任があります。
 しかし、過去の先輩たちは必ずしもそうではなかったのです。

 先輩たちを責める意味で言っているのではありません。私たちが繰り返してはならないための教えを学ぶために一つの例を指摘しておきます。

「倉橋惣三」という方のお名前を知っている方はあると思います。倉橋といえば日本の幼児教育論の最高峰の指導者・大御所、大変な貢献者です。『幼稚園真諦(しんたい)』という著作が主著で、ほんとうによく読まれている本です。子供のもつ絶対的尊さを説いて日本の保育史に貢献しました。第一級の人である。内村鑑三の影響を受け、聖書の幼児観を包含した実践者です。

 太平洋戦争開戦時の文章『戦争保育の本質』

「お互いに今日は戦時生活のなかにおります。……戦時生活という意義は、互いの生活の全部が戦争目的に合致しているということであります」

「今日1人の子供といえども国民の補充として考えなければならないのであって、人の量は戦争の勝負に最も根本的条件なのであります」

 として捉え

「大東亜戦争が要求するのは日本人の持ちこたえる力であります」

「全体が一つになって戦っているのであります」から「そのために人と一緒になれる性格をつくっておかねばならない」

「今日の戦争は1人の人が相手を殺すといふのではない、国と国とがぶつかっていて、しかも(天皇)陛下のご命令によって戦いが行われているのであります。このことは何の斟酌もなく十分に幼児に伝えるべきであります。」

 国立音楽大学の幼児教育の教授・下山裕彦氏は「人間の尊厳と自由を一貫して前面に押し出してきた倉橋のユニークな保育思想の片鱗さえもこの論考に見出だすことは不可能である」といっています。

(『幼児保育の基礎理論』「倉橋惣三の保育思想 −『社会的性格』をめぐって」
 頌栄保育学院の図書館書庫に「幼児と保育」バックナンバーがあるはずです)

 私は戦時下の知識人の戦争協力や戦争責任に関心を持ち、特にキリスト教、とりわけ「日本基督教団について、その『戦争責任』の実態をよく知り、それを繰り返さないために、自分の信仰や思想のありようをどうすればよいのか」に心を悩ましていたそんな時期に出会った論文です。

 そして今。国会に上程されている「有事(戦争)立法」の反対運動に、身を置きつつ、何故このような戦争への「国民」総動員法案が、ほとんど抵抗勢力なしに、押し切られていくいくのか(今国会では種々な政治的理由でたとえ成立が延びたとしても)、その風土への憂いは尽きない。

 この春、私は幼児教育の42年間の現場を離れた。「倉橋」ではないが「子どもに直接ぶつかって」与えられた躍動する命の関わりが、走馬灯のように心を巡る。

 小学校に行って、人権標語の募集に、さらっと

「遊ぶのだいすき。笑うのだいすき。みんなだいすき。」

 と書いて、入賞したAちゃんを、お母さんは「幼稚園の毎日の生活を言っただけですのにね」と屈託なく笑っていた。

丸木美術館で感じたこと

 丸木位里・俊というご夫婦の画家がいます。絵本の挿絵も描いておられます。福音館の「うみのがくたい」、小峰書店「おしらさま」、あかね書房「つつじのむすめ」、代表作「原爆の図」(国際平和文化賞)、「日本の伝説」(世界絵本原画展のりんご賞)、「ひろしまのピカ」(絵本にっぽん大賞)。

 この方が、埼玉県東松山市に丸木美術館を私費で建てて作品を展覧しています。一番奥の大きな部屋に、何年もかかって描いた大作が4枚ありました。

「原爆」「南京虐殺」「アウシュビッツ」「水俣」です。

 戦争で苦しむ人が克明に書かれています。それもこれも精魂を込めて描いたものです。

 一瞬、戦争の、20世紀の悲惨を知らせるものかと思いました。

 よく見てみると、描かれている人は男の人も女の人もほとんど裸です。ほとんどが死体です。丸木さんには死んで行った人の声、叫びが聞こえているのだと思います。

 第三者的立場で、戦争の悲惨を描いたのではなく、「叫びと声を」画家であることの責任として、描いたのです。

 戦争の現実を、ただ現象として第三者的に見ないで、自分の事として受け取って、その問いかけられたことを、じっくりと聴いたのだと思います。そうして画家として何ができるのかを考え、それを自分の作品として、自分が変えられて、それを作品にして、今度は、自分の周りの人に訴えているのだと思います。戦争には、傍観者というものはいないのです。

 実は差別の問題も同じです。差別にも傍観者はいません。差別されている人と、差別している人です。何も自覚していない、とか私は知らなかった、という人は、大きくは差別する側に力を貸してしまっているのです。

 私は最近一通のはがきを戴きました。

 それは、私の親しい友人の牧師からです。この方はキリスト教の世界で初めて自分は被差別部落の生まれだという「部落民宣言」をした人です。

 日本では部落解放運動の宣言である「水平社宣言」の中に「人間を尊敬することによって自ら解放せんとするもの……」という言葉がありますが、その牧師は次のように言っています。

「私は部落に生まれた事を父母に感謝している。決して恥ずかしいとは思っていません。人として自らを尊敬する事を教えられたからです」

 その人が『盥の水を箸で廻せ』(中川書店 2000年12月25日)を出版されました。

 変わった題の本だな、と思いました。その牧師が「部落解放の仕事はしんどいな」と思っていた頃、言われた言葉だそうです。

「盥(たらい)の水は井戸から汲んだ時はこちらに流れている、しかしお箸で何回も回していくうちに流れが変わってくる、千回も二千回も回しているうちに、お前には必ず友達が、支持者が、協力者ができる。嫁さんや、子供やいろいろな人が、みんながその流れを変える運動をする。その時に、ほんとうに差別のない歴史がくる。がんばりなさい」

 彼からのはがきには、私が35年前に広島(岩国教会時代)に書いた文章が引用されていました。

 随分革新的な事を書いてくださいましたが……その後あなたは、部落差別とどう向き合って闘われましたか?その後、神戸で解放運動の事を訴えてきたのでしょうね。そういう事をしていないなら「ところ変われば品変わる」ということになりませんか……私は闘っています。……自分も差別者かもしれないと自覚しながら……

 なかなか手厳しいはがきでした。慰めは、彼は被差別者でありながら、自分も差別者かもしれないと言っている謙虚さです。

 部落差別がどういうものであるかを、私は彼から学びました。

 私がかつて書いた文章の冒頭には、こんな詩が引用されています。

 詩の作者の苦しみにほんとうには連帯できないのに「引用をしてよかったのか?」という思いは今でもあります。こんな詩です。

「五本目の指を」

私がはじめて恋を知ったのは
二十一の秋
私はかぎりなく彼をしたい
彼はやさしく私をいたわっているようだった
冬になると
彼の部屋のコタツに火をいれて
私たちは話し合った
私が彼のオヨメさんになる日のことを

その夜は、雪がシンシン しずんでいた

“春”になったらネ 
指切りしましょう

私の指がかわいいと言って
からめた指を
二人は長い間大切にしていた

その彼が
私を四本指だと
言いはじめたのはいつからだったか
彼のお母さんにあった日から
二人の上に春は来なくなっていた

私には見えないけれど
たしかに指が四本だという
切れたのは指切りした指だろう

約束を守らなかったのは
私ではなかったのに

私は四本指の娘だという
持って生まれた不幸のせいだという

私は想った
私は泣いた

生まれ出た家のひくい軒(のき)のこと
ねこのひたい程の耕地をむさぼる
一かたまりの部落民のこと
血族結婚の末の精神異常者のこと
若者たちは自暴自棄
追いかえされた若妻
テテナシ子

私は死のうと思った
傷をいやす為に
ちゃんとした五体になる為に

私の心の中でプッツリ切られてしまった
五本目の指を
その指を返せ
その指を返せ
とうたいながら

傷口はいえないだろう
傷口はいえないだろう
傷つけたものへの怒りとなって
その口はひらくだろう
なお大きく
深く

いたみながら

(『詩集「部落」:五本目の指を』真原牧・丸岡忠雄著、駱駝詩社、1969年)

 そうしてこう記しました。

「少し長い引用になりましたが、この詩には、差別というものが差別されている側の現実として、いや傷口としてのみ存在することが痛いほど示されています。差別の問題、たとえば冒頭の未解放部落差別をはじめ、在日朝鮮人差別・原爆被爆者差別・沖縄差別について、よき理解者というものはありません。
 差別の現実と闘わない者は、その人が差別の問題に無自覚であるとか、理解者であるとかを問わず、差別している側に立ってしまっているという厳しい認識から出発しなければならないでしょう」(『洗礼を受けてから』1968年、1988年 8版)

 神戸には沢山の被差別部落があります。神戸に24年間教会と幼稚園の務めをしていましたが、その間に、母親の間での子供の差別、教会で結婚式を挙げる際の部落ゆえの差別、また障害児の差別に出会ってきました。「ほんとうの解放に向かって努力できたのか?」と考えると、もう何もしていない、という思いがします。

 今日こんなところで、皆様の前に立って、差別のお話しなどする資格がないことを誰よりも私が知っています。なまじっか知っているゆえにもう一歩踏み込んで取り組んでいない自分ばかりが見えてきます。

 しかし、考えてみると、差別されている側の人によって、目が開かれた経験がたくさんあります。

 特に、障害児のことでは、私に差別する者から解放してくれた幾人もの子供がいます。

 その1人、康明君のことをお話しして締め括りといたします。

 私を子どもの世界に連れ込んだ「やすあき君」のお話をします。

 白いパラソル。平井信義先生のお勧め。目が合わない(情緒障害・多動)。あっという間に印刷室のインクベタベタ。現場の教師のボイコット。やすあきちゃんとけんさくちゃん(私)のクラス入り。クラスの大混乱。野菜の歌。学習機。「北風と太陽」。大粒の涙。沈黙と祈り。卒園式の笑顔。▶️「すずかけの葉っぱ」

 以来、多くの子供と出会う事が出来ました。

(サイト記)テキストはここで終わっている。講演のために準備した原稿であって、印刷配布されたテキストではないものと思われる。

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