1975年11月2日 岩国教会週報
「先週説教より」マタイ10:24-25、コロサイ1:24-25
(岩国教会牧師11年度、健作さん42歳)
弟子がその師のようで……あれば、それで十分である(マタイ10:25)
技術や学問を習うのであれば、弟子は自分が選んだ師の水準をやがて超えていくこともあるだろう。けれども、イエスの弟子はそうはいかなかった。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」(ヨハネ15:16)というように、師が弟子を選んだ点で違っていたし、十字架の死に至るまでの虐げられた者の側に身をかけた振る舞いは、弟子たちには躓(つまず)きであっても、超えられるようなものではなかった。「師のようであれば」(マタイ10:25)とはイエスの苦しみと死を言っている。
二つのことを私たちの信仰生活への語りかけとして受け取りたい。一つは、苦しみを負うことの中に、イエスに従う道があること。イエスの受難と死へはたとえ無限に遠くても、イエスにつながる苦しみに生きること。人間として逃れようのない苦しみを負う人たちにつながる方向で生きること。第二は「師のようであれば、それで十分である」(10:25)という言葉が持つ慰めに生きることである。イエスは私たちには超えられない苦難の道を歩む教師であり、私たちはその真似をすることを許されるにすぎないのだけれども、苦しみがあっても一つ一つの事柄に取り組むとき、それがイエスに従うことの十分さを持っているということが、慰めなのである。つまらないことに苦しんで前進を阻まれていると思われるような些細なことが、案外大事なのである。苦難に出会い、身を退ける教会ではなく、それを喜び、パウロが言うように「キリストの苦しみの足りないところを」(コロサイ1:24)じっくり負う体質の教会を目指したい。
(1975年10月26日 岩国教会 岩井健作)


