広島・長崎・沖縄からの祈り(2006 美術)

『講座 日本のキリスト教芸術』(2)所収
(日本基督教団出版局 2006年9月発行)

「キリスト教美術」5.広島・長崎・沖縄からの祈り

(明治学院教会牧師、73歳)

1.美術と戦争

 広島・長崎・沖縄は私たちの想像を絶する戦争の惨禍を経験した。人類初めての核戦争による残虐死を目の当たりにした者たちは、非戦平和・核兵器廃絶への祈りを切実に抱いてきた。

 しかし、現実はその祈りとは裏腹に、今も戦争の悲劇は繰り返されている。キリスト教に関わるものが美術をめぐって今何を祈らねばならないのか。それは「広島・長崎・沖縄からの祈り」とどう関わるのであろうか。

 姫路市立美術館の主催で「美術と戦争」展(2002年5月)が行われた。2002年といえば「有事法制」が政府によって目論まれ、自衛隊を何としてでも「イラク戦争」の現場に派遣し、どこまでもアメリカの世界戦略に追従しようとする日本政府の在り方が目に余る状況であった。

 さらに第二次世界大戦への痛み・懺悔・反省を内に秘めた平和を理念とする「日本国憲法」を改悪するという政治日程が動きはじめていた。その年、右傾化する世論に抗して「ヒロシマ・ナガサキ・オキナワを繰り返すな」という「祈り」に近い呼び掛けの集会が8月6日に広島で予定されていた。しかし、マスメディアを含めて日本の世論はその「祈り」に耳を傾ける余裕はなかった。

 展覧会を企画した学芸員の平瀬礼太氏を訪ねた。美術が社会のなかでコミュニケーションの役割を担うとすれば、見せるという行為は自ずと他者への何らかの影響を前提としている。そこでは美術が政治と無縁ではない要素を含んでいる。

「逆説的だが、政治とは無縁でなければならないというテーゼこそが(必要以上に)政治的メッセージと思わなければなるまい……もともと何らかの力学が働く美術の場で戦争(特に十五年戦争後期の総戦力のような)という圧倒的な事象とどう絡み合ったのか、そこでは美術と言われているものの一つの臨界点を見ることができるのではないか。この展覧会では作品が戦意高揚に寄与したり、もしくは反戦的だという点などを最初から強調するつもりはない。作品の有する価値を美的価値や、様式論、政治的効果などのそれぞれに限定するなら作品がどういう意味をもつのか提示するのは容易かもしれない。…‥しかし、……とにかく、まずどのようなものがあったのかを見てもらうことが必要だと考えた」(『美術と戦争』2002、姫路市美術館友の会発行。p.74)

 とかなり抑制した意図の展覧会であった。同氏は1930年代から40年代にかけて十五年戦争期の美術について、弾圧があり、戦争記録画しか描けなかったという憶測にもかかわらず、当時展覧会の数は平時より多く、作品もよく売れ、美術は戦争を契機に活況を呈したといってよい、と言っている。

(サイト記)「十五年戦争」とは、柳条湖事件(1931年)からポツダム宣言受諾(1945年)までの15年、満州事変、日中戦争、太平洋戦争を一括した呼称で、鶴見俊輔さんが初めて用いたとされる。

 もちろん時代の動向は戦意高揚や産業戦士慰問、宣撫宣揚へと傾き、前衛、自由主義、芸術至上主義、厭戦的なものが好まれなかったという傾向はあった。しかし「総合的に見ればそれこそ制作者の態度如何、提出方法如何という側面はあったようだ」(同p.75)と判断している。この指摘は大事である。同美術館の主催の意図は画家の戦争へのコミットメントを根本的に問うているように思えた。

 戦争時代に、戦争を描いて何故悪いのか。美術家が職人という観点に立てばそうであろう。しかし、何故表現者として他の人々より戦争を客観的に見て、批判的見地に立たねばならないのか。一つの作品はその影響史までもを考慮して、戦争との関わりが論じられなければならない。作品を戦争協力かそうでないかという単純な二元論で見ることを慎まねばならないと私は思う。

 このような展覧会には「戦争協力」の作品が圧倒的に多い。子供のころ明治神宮の「絵画館」で見た戦意高揚の作品が即「絵画」という印象をかなりの期間ぬぐい得なかった。しかし、作品は影響史まで考慮に入れなければその存在の意味があらわにはならないであろう。例えば、小早川秋声(1885-1974)の「国の楯」(1944)という作品があった。死せる将校が武運長久の国旗で顔と頭部を覆われ軍刀を胸に横たわる構図である。背景は喪の黒に塗りこめられている。アトリエを訪れた師団長は作品の前で思わず深々と頭を下げたという。しかし、天覧に供する為にと依頼した陸軍省は受け取りを拒否したという。この絵は逆説的に天皇支配下の死の不気味さを醸し出している。浜田知明(1917-2018)の「初年兵哀歌」が数点展示されていたが、1951年の作品である。前衛画家の戦争への悔恨と悲哀の表現であろうか。ゴヤの作品「戦争の惨禍」が4点展示されていた。画家が画題として戦争の惨禍・悲劇をテーマにする時、その内面を読み取らねばならないであろう。戦争は誰が為のものか。

 この展覧会に私には唯一といわれるほどに数少ないキリスト者の作品が展示されているのを見た。小磯良平(神戸組合教会、現日本基督教団神戸教会)の「会談の前」である。1942(昭和17)年の作品である。

 蘭印側との降伏調印前の会談の緊張が描かれている。小磯は卓越した描写力のゆえに1938年に陸軍報道部の委嘱で「支那事変記念画」を制作するため従軍する。1940年には「支那事変」派遣画家として再度従軍し翌年「娘子関を征く」(図版)を第二回聖戦美術展に出品し、第一回芸術院賞を得ている。

 しかし、平和そのものの代表作「斉唱」は1941年である。1942年に藤田嗣治や伊原宇三郎らと共に陸軍省派遣画家として南方を訪れた。その時の作品が「カリヂャティ会見図」である。

『美術と戦争』の年表は詳しく戦時の状況を記録している。それによれば1941年、大政翼賛会においては高村光太郎より「芸術による国威発揚」の提案がなされるなどの当時の文化報国の凄まじさが記録されている。その流れの中での洋画壇の作品も勇ましい。向井潤吉の「突撃」(1939)、小早川秋声「誉れの家」「真心」「偲べ戦線」「和光」(1942)、藤田嗣治「ドンタン進駐」(1943)、宮本三郎「シンガポール英軍の降伏」、吉岡堅二「ハワイ真珠湾強襲」。

 小磯も同じ状況にあった。しかし微妙に、作品はもの静かであり、極力戦闘場面が避けられているなどスタンスの違いが読み取られる。後、筆者は神戸教会牧師に赴任(1978-2002)、最晩年の小磯に厚誼を得た。氏は戦争中のことは沈黙を守った。家族もそのように語っている。「戦争協力」の負い目を内面に深く宿していたのであろうか。アジアの人々に水を、と募金する「アジア協会アジア友の会」の友人を小磯さんに紹介した時、これで協力できるならと黙って傍らのリトグラフを一枚そっと渡されたという。戦時下軍属としてのアジアへの旅の罪責をを心に秘めていたのであろうか。小磯の両親は生家も養子先も神戸教会会員で明治初期の熱心なピューリタンの信仰厚い信徒である。画壇で西洋古典主義の伝統をかたく追及した姿勢も、戦争に対して控え目に距離を保ったことも、ピューリタンの精神基盤に根源を持つように思う。それは、帝展改組に反対し純粋芸術の確立をめざし新制作派協会の結成に加わった原動力とも深いところで関わっていた。

 日本のキリスト教は主流で戦争協力をした。美術にたずさわっていたもの達もその流れの中にあった。けれども決して積極的「戦争讃美」ではなかったというスタンスには、苦境を生きた者の思想がある。これは無思想であることやイデオロギー的であることよりも大事なことだと思う。

 美術を人間本来の営みとして模索することは戦時下では難しかった。だが、制作者として戦争と距離をおくことに悩むところに、美術に携わるキリスト者の営みが生きているのではないか。

 戦後「憲法9条」にも関わらず、日米安全保障条約体制が憲法体制を浸食していった。それに抗ってキリスト教の芸術家たちは作品を残した。田中忠雄(霊南坂教会員)の「基地のキリスト」(1953)。創作ノートでは「発想の素因は立川でのわたしの印象と、ヨハネ8章にある」という。

 基地周辺で生活する女の問題は、米軍がいる限り続くであろう。同氏の「みくにを来らせ給え」(1950)は、小さな教会堂で主の祈りを捧げる礼拝者を描いている。

 米軍基地の絵と重ねて見ると田中の社会性と宗教性が織りなして響く。彫刻では、戸村一作(三里塚教会)の第52回二科展出品作品「吠える大魚」及び「裂く」は、彼が反対同盟委員長を務めた三里塚空港阻止闘争の外と内の激しさを表している。

2.広島・長崎・沖縄への祈りの旅

 私は美術には素人である。客観的、体系的叙述は向いていない。執筆依頼を自分流に考えた。実際に平和運動にたずさわっているものが「祈り」を含めて「キリスト教美術」をその土地で出会ったままに心の思いを記せばとよいと、軽い趣旨に理解して敢えて重い本稿を引受けた。

「キリスト教美術」とは何か。ここでは私流に広く理解して、第一にキリスト者が作者であるもの。第二に素材やテーマがキリスト教に由来するもの。第三に、一般の作品であってもその中にキリスト教の宗教性と重なりあう宗教性を宿す作品。この三つの視点を考えたい。宗教性とはなにか。人間を人間たらしめるもの。本来的自己を生かす超越的関係性ではないだろうか。そんな思いを持って、与えられた課題を携え、それぞれの場所を尋ねた。

① 沖縄

 沖縄では、2004年夏に国際大学構内に米軍ヘリコプターが墜落・炎上し、しかも「安保条約の地位協定」によって日本の法による捜査もできないという事件が起こっていたり、さらにこれを逆手にとって懸案の普天間基地の移転問題を加速させる事態が起きていた。それは名護市辺野古への海上ヘリ基地建設の促進である。辺野古での基地建設阻止を体を張って戦う熾烈さの担い手は、平良夏芽をはじめとするキリスト者を中核に含んでいる。沖縄へと本土から関わる者は、琉球処分以来の沖縄との関係での加害者として自覚を持たねばならない。それは日本近代国家の質の自覚でもある。沖縄戦、米軍の施政権による統治、1972年の沖縄返還後の集中的米軍基地の存続、基地の存在による戦争への加害者性、人権侵害など。これらの認識を抜きにしてこの地へ足を踏み入れることはできない。

 そんな意識を持って佐喜眞美術館を尋ねる。祖母から沖縄の土地を相続して軍用地代を手にすることになった佐喜眞道夫は、鍼灸治療を施すために訪れた東松山市唐子の丸木美術館の丸木位里(いり)・俊と交誼を深めていた。丸木位里・俊から「沖縄戦の図は君に任せる」ということになり建設された貴重な美術館である。丸木位里・俊の「沖縄の図」9作品。「久米島の虐殺(一)(二)」「亀甲墓」「自然壕(ガマ)」「喜屋武岬」「集団自決」「暁の実弾射撃」「ひめゆりの塔」「沖縄戦の図」が収蔵されている。

 丸木位里・俊夫妻は居を沖縄に移し、それぞれの戦場の修羅場の体験者からの聞き取りや写真や資料の丹念な収集に基づいて制作をした。その他ケーテ・コルビッツ、上野誠、ルオーなどが収集されている。

 コルビッツ(1867-1945)はドイツの社会的傾向のリアリズムを代表する女流版画家・彫刻家である。「家族」は喜びを「戦死」は第一次大戦で失った息子の悲しみと慰めを示す。農民の苦悩を表す「鎌を研ぐ」。「母子像」には母親の苦悩の心情が溢れていた。俊は精神の深いところでコルビッツの影響を受けたという。

 版画家・上野誠(1909-1980)の「ヒロシマ三部作」「原子野シリ-ズ」「希望」が心を打つ。ルオー(1871-1958)が現代最大の宗教画家であることは論をまたない。ミセレ-レの”No.1”が目を引く。「神よ、われを憐れみたまえ、等身の大いなる慈悲によりて」には、沖縄の苦悩を抱えた祈りがある。辺野古で座り込みに参加し、読谷村のチビチビガマで彫刻家・金城実の「平和の祈り」像に自らの「祈り」を重ねた。折しも平和ガイドに出会い、墓碑の氏名に当時のいわゆる「集団自決」の状況をつぶさに聞き、日本軍支配下の戦時の凄惨な状況への悲しみと怒りを新たにした。残念ながら他の美術館を尋ねる余裕はなかった。

② 長崎

 長崎では、知人の案内で原爆史料館、原爆落下中心地、平和公園、平和記念像、如己堂、浦上天主堂、西坂公園・日本二十六聖人殉教地、大浦天主堂を足早に見学した。「長崎の祈り」との出会いを求めての旅であった。

 原爆史料館では、丸木位里・俊の「原爆の図」15連作の15部「長崎」の展示が目に飛び込んでくる。

 絵画では松添博(1930-2014)の青紫に黒い墨を流したような背景に被爆した裸の母がうつぶせに我が子をかばう姿の「母と子」。振り袖を着せて手を合わせて台にのせた美奈子ちゃんと史子(ちかこ)ちゃんの二人の少女を火葬にする場面の「ダビ・悲しい別れ」が強烈な印象を残す(いずれも『原爆写真ノーモアヒロシマ・ナガサキ』編者・黒木一夫・清水博義、2005年、日本図書センター、所載)。作者は『ふりそでの少女』(文・絵 松添博、汐文社 1992年)の絵本も残している。元長崎原爆被爆者療養センター所長。アメリカで原爆の悲惨さを訴えた人。

 資料館の出口近くに原爆版画家・小崎侃(こざきかん 1942-)の作品があった。「首のない神の使徒たち」「天使像」「廃墟の浦上天主堂」など絵葉書を求めた。平和をテーマに個展を全国各地で三百回も続けているという。

 しかし、なんと言っても「長崎の祈り」を凝縮しているのは、市民の描いたあの日、であろう。NHK長崎放送局の呼び掛けに応えて1974年以来寄せられた329点の「原爆の絵」である。幸いこれらは一冊になって出版されている(『原爆の絵 – ナガサキの祈り』NHK長崎放送局編、日本放送出版協会、2003年)。絵は手法、様式、色彩、表現、さらには思想において実に多様である。描かれた記憶であり、言葉を宿した構図と色彩であり、死者に代わっての訴えであり、その表現を超えた意思が伝わってくる。その意味で「長崎の祈り」である。

 毎年の8月9日のテレビで馴染みの「平和記念像」の前にたたずむ。作者の言葉が刻まれている。

「…… 右手は原爆を示し 左は平和を
 顔は戦争犠牲者の冥福を祈る
 是人種を超越した人間
 時に佛 時に神
 長崎始まって最大の英断と情熱
 今や人類最高の希望の象徴
 昭和三十三年 北村西望」

 歴史が「冥福を祈る」に吸収されてしまって、過去への省みがない。原爆を落としたのは誰か。戦争犯罪への追及とは言わないまでも、広島の原爆慰霊碑のように、たとえ抽象的であっても「過ちは繰り返しません」との過去への反省と決意があればよいのに、と思う。宗教的ニュアンスを漂わせる造形に違和感を抱く。

 その足で永井隆が最後を過ごした如己堂を訪れる。畳二畳の生活空間の家屋である。質素で高潔。放射能障害の被爆者で医師、カトリック信徒、著作『長崎の鐘』を残す。お堂の足許にさりげなく置かれた石彫りのキリストの顔の像の端正さが心に残る。

 西坂公園の日本二十六聖人殉教地を訪ねる。1596年の殉教から記念碑建立までの長い歴史と経緯は『日本二十六聖人 ー 長崎への道』(結城了悟著、改訂7版、日本二十六聖人記念館発行)に詳しい。

 遠くから見ると横並びの聖人像と真ん中縦の聖書の言葉の彫り込みとが交差して横長のブロンズの十字架となる。制作者カトリック信徒彫刻家・船越保武(1912-2002)は「合掌して天を仰ぐ形は、その下にたって見上げる人に最も美しく見えるように考慮した」と語っている。祈りは、キリスト教信仰では、願い、感謝、執り成し、讃美を表すが、歴史の悲劇・殉教という最も過酷な状況を天に向かって突き抜ける旋律を響かせる。記念館に船越の四枚のデッサンがあった。その一つ「合掌」は祈りを自ずと促し誘う作品で、長崎の象徴として心に焼き付いている(図版)。

 なお、日本基督教団 長崎馬町教会には会堂建築の際寄贈された日本画「『原爆図』新しい生命の誕生」鈴木靖将(大津教会員)が掲額されていることを関係牧師を通して後で知り写真を送って戴いた。絵本「アンデレのふしぎな夜」(教団出版局)の絵の作者。雰囲気が似ている。「岡まさはる記念長崎平和資料館」の事は後で知った。ホームページでこの牧師の働きを偲んだ。

戦争とわたし

③ 広島

 広島は、かつて私が神学校をでて最初に教会に赴任した地でもある。原爆の惨禍の衝撃をその時初めて受けた。以来ヒバクシャ救援、原水爆禁止、核廃絶の運動には端くれの端くれにではあるが関わってきた。実際というより意識だけはと言った方がよいかも知れない。知友の牧師の案内で「広島記念資料館」を訪ねる。展示の考え方、方法は以前と違って、軍都広島から始まり被爆悲惨の膨大な事実の証し、終わりは核廃絶へと取り組む広島の意思をたどった歴史の視点が貫かれている。

 地下一階に美術作品がまとめられている。正面に日本画家・平山郁夫(霊南坂教会員)のただ一つの原爆図「広島生変図」(広島県立美術館所蔵)の実物(171cm × 363cm)を陶板に焼き付けた陶壁画がある。遠景シルエットで画面下方に描かれる原爆ドームを中心にする町並みが炎に黒く浮かぶ中、画面いっぱいの火炎の朱の中空に憤怒の不動明王が目を見開き鎮座する(黒古・清水、前掲書、60頁所収)。画面には「生きよ」と激励する彼方からの力の緊張が漲る。平山は15歳の動員の最中被爆。死の広島を体験。34年目に初めてそれを作品にまとめた。展示室には市民から寄せられた絵の中から、この時は「水」をテーマに数十枚の展示がなされていた。千枚以上がNHK広島放送局に寄せられたという(『原爆の絵 ー ヒロシマの記憶』NHK広島放送局編、日本放送協会出版 2003年)。

 記憶の焼き付いて離れない場面が写実ではなく、記憶のイメージとして訴えられているところに市民の芸術的表現力の底力を感じた。何枚かの絵に聖書の言葉をイメージした。「水を飲ませてください」(ヨハネ 4:10)「倒れる者はおびただしく、しかばねは山をなし、死体はかぞえきれない」(ナホム 2:3)。

 現代戦が市民の残虐死をもたらす現実を誰がとどめるのか。2004年、世界で叫ばれた世界の民衆のデモの言葉が心をよぎった。”Only The People Can Stop The War”。

 広島市現代美術館に案内していただく。1989年、市政施行百年を記念して開館。その年記念展を行っている(『広島・ヒロシマ・”HIROSIMA” – 国内外制作委託作家78名によるヒロシマの心』編集・発行同美術館)。ヒロシマをめぐって強烈な表現と多様な制作を図録から感じる。展示は見られなかった。

 その一つ日本画家・上野泰郎(1926-2005 田園調布教会員、キリスト教美術協会会員)の「刻まれし時 1945.8.6」は、あの死の時を造形化された人体の集積として描いている。「神をおそれぬ人々が犯した罪はぬぐわれないが、この怒りの日をもう二度と犯さぬことを念じつつ」とは作者の言葉。人間存在の重みが特異な描法・色彩により分割された平面に表現されている。

 収蔵作品は千点に及ぶという。森芳雄の「母と子」は現代のピエタそのものである。灰燼に帰した聖書によって世界の終末を預言した「聖書」シリーズの作者、荒木高子の「原爆の聖書」(陶芸)も収集されている。作品を見ることはできなかった。

3.「原爆の図」をめぐって

 「広島・長崎・沖縄からの祈り」をテーマにして、絵画に思いを巡らす時、私たちは、日本画家・丸木位里(1901-1995)、洋画家・俊(1912-2000)夫妻の広島・長崎の原爆の図、沖縄戦の図などの共同制作作品とその影響史について思い巡らすことを避けて通ることはできない。

 丸木位里は戦前より画壇では唯一戦争批判をしていたシュールレアリスム集団・美術文化協会との関わりで活動をしていた。社会主義思想を軸とした絵画活動である。位里の画風に惹かれたのがきっかけで結婚した赤松(丸木)俊は、人体裸像などの確かなデッサンに基礎を置く洋画家であり、絵本作家である。戦前だけでも絵本の作品は150に及ぶという。戦後は日本共産党党員としてその芸術運動に携わっていた。社会主義と関わりはあっても、キリスト教とは直接関係はない。

 位里の郷里は広島の三滝であるが、原爆が投下されたすぐ後に実家の救援で広島に帰り、直後の被災状況を体験している。その広島の記憶をリアリズムの手法で1950年の第三回アンデパンダン展に向けて制作したのが「原爆の図」第一部「幽霊」であった。続けて同年「火」「水」が描かれ初期三部作がそろう。その時期はいまだ米軍占領下である。報道管制が敷かれていて、原爆の人間への被害の報道は禁じられていたので、被爆群像を描いた作品は人々に衝撃を与えた。

 同じ年、丸木位里・赤松俊、絵・文でポツダム書店より出版されたのが絵本『ピカドン』である。本の作成を依頼した池田幸子は「占領軍に見つかって発売禁止の命令を受け、原画も没収されてしまいました」(丸木位里・俊、絵本『ピカドン』東方出版、1982年版、上笙一郎解説)と語っている。そしてポツダム書店もなくなったという。しかし、日本基督教団ロゴス教会が発行しているミニコミ誌「ろばのみみ」の別冊という形で残されたものがあった。編集者は鈴木晴久。これを元に1975年に著者の「戦後生まれの人たちにも読めるように」という意向で復刻的新版が東邦出版から出されることになった。1950年は朝鮮戦争を境にして、日本再軍備への「逆コース」が始まり、共産主義への押さえこみが始まっていた。その意味ではこの絵本は原爆惨禍についての美術的証言であると同時に、抗議と反戦の意思に貫かれている。

 平行して原爆の図3部作の全国巡回展が行われ、たくさんの人が初めて原爆の悲惨の実態を知ることになった。美術作品であると同時に社会的意味を負う作品となっていった。

 1953年、俊は国際婦人会議に「原爆の図」を携えて出席する。俊は以後十年、ソ連訪問に始まり世界各地を回り、核兵器廃絶運動の旗手とされた。その後1970年代に中国からアメリカを巡回する。原爆の悲惨性は訴えられた。しかし中国では日本の戦争加害者責任が問われた。夫妻はそれを自覚しての制作をするようになり、1980年代に入って沖縄の図8連作に取り組んだ。その後、南京虐殺の図、アウシュヴィッツの図、在日朝鮮人被爆者(「からす」)、米兵捕虜の死、水俣、原発、三里塚、足尾鉱毒の図、チェルノブイリ、天安門事件と絵のテーマを広げた。

 現代の底辺で命を奪われ、人権を侵された人々の、その当事者の叫びを汲むように描きつづけられた。平和運動の高揚期以後、政治との密着から離れ、作品群は埼玉県東松山市に建設された丸木美術館に居場所を確保された。

 丸木位里・俊を私は最初「社会主義リアリズム」の作者として原爆の悲惨、戦争の残酷さを訴えていると受け取った。しかし、その後、丸木美術館を訪れるうちに、戦争犯罪への告発を暗に感じるようになった。また、絵の手法が人体のデッサンを基本的単位として個々の命の叫びを描いていることに気が付き、これは抽象的な誰かではなく、現実に存在した固有名詞で語られ人物が描かれていることに気がつかされた。絵と共に作者・俊の語りが加えられていたとも聞いた。「原爆の図」は非業の死を遂げた犠牲者の追悼の意味を担い、残った者の非戦の誓いを結実させていくという社会的、あるいは時としては宗教的意味合いをも担った作品として、その影響史の意義付けと共に歩き始めた。丸木位里・俊夫妻は、後に被爆地に入ったという意味の被爆者ではあったが、作品「幽霊」に出てくる死と生の間を彷徨った当事者ではなかった。被爆の語りを聞き、記憶をたどって被爆を追体験した制作者である。観る者をしてさらなる経験へと引き込んでゆくのが制作者の芸術力である。

 小沢節子(後出)はこれを「絶対的な伝達/表象不可能という困難をつねに背負った……被爆体験の思想化の試み」といっている。おびただしい死者の言葉や声にならない声が、現代的な課題を負って響いてくる。「祈り」とはそのようなものであろう。

 丸木位里・俊の作品は美術の領域で「キリスト教美術」と直接関わりがあるようには思えない。だが、戦争と平和を軸にして考えれば、人間をどうみるか、戦争による不条理の死をどうみるか、戦争責任を自分の問題としてどう受け取るか、など思想のありようの問題がある。その領域でキリスト教的思惟と重なる部分がある。

 丸木位里・俊について夫妻とその絵画及びその時代史についての最近の論考に、小沢節子『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(岩波書店 2002)がある。

 読了して、教えられる所、共感する所が多かった。小沢は『原爆の図』を「近代的リアリズムの認識では描けない多重的多層的な現実(115頁)」といっている。丁度絵本『ピカドン』のペ-ジをめくるように、大きな画面は歩いて観るものだという。絵の部分部分に苦悩の世界があり、それぞれの時間がある。それらの総合が破壊力の前にさらされた人間の様相を含んだ現実である。そういえば『ピカドン』では、破壊された幾つもの生活の物語があの瞬間の悲惨を繰り返す。小沢は「原爆の図」を描いた手法につき「原爆の図は日本画家・丸木位里の伝統的かつ前衛的な手法と水墨画的構想力、洋画家であり絵本作家である俊のデッサン力と物語を紡ぎだす技が解け合っている。」(134頁)という。

 著者は二人の画家の出会いを、結果として生まれた作品をすら凌駕する不思議な出来事として、説得的に説く。1960年代日本原水爆禁止運動は社会主義国の核保有をめぐって混乱・分裂をする。1967年、丸木位里・俊夫妻は共産党を除名される。そのとき除名された人には朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐田稲子、佐藤忠良、野間宏、本郷新などの名が見える。私はそこにマルクス主義理論よりも人間の現実を優先させる芸術活動の香りを覚える。

 幼少より俊は人体に美を感じていた。人体の細部を描くことにより、人間の叫びを表現している。

「最も抑圧され、差別され、殺されていく存在を女性性を通して表現しようとした……彼女が自らの人生の痛みを介して、殺される側の体験に迫り、形を与えようとしていることになによりも注目したい。[女の執念/怨念]という一見、場にそぐわない言葉も、彼女にとっては戦争の暴力と悲惨という他者の体験を自己に引き寄せつなぎとめるための舫い(もやい)綱だったのである。」(230頁)

 そこは位里と異なる所であったが、また作品の深みである。夫妻の制作活動は絵を見る人々との対話により変わっていった。ここを小沢は

「初期『原爆の図』が強い内的動機によって描かれ、中期『原爆の図』が平和運動の高揚を背景に描かれたのに対して、後期『原爆の図』は1970年代の戦争責任論の流れのなかで外からのはたらきかけに応えて制作されいったものと言える」(231頁)

 と指摘する。

 私は、夫妻の1985年の作品「地獄の図」(ブルガリア国立美術館蔵)を図録でみた。多重的、多層的に場面場面に自分を没入させながらでないと見ることは出来ない構造と内容を持っている。それに添えられた言葉に動かされた。

「ひろしま、みなまた、アウシュビッツ、南京、沖縄。人を苦しめ、虐殺を命令したもの、実行したものは地獄行き。炎に包まれる英雄たちを描きました。ヒトラー、トルーマン、そして天皇が地獄に行くのは最初から、はっきりしています。さて、私たちはどうなるだろう。天国や極楽へ行くはずはない。やっぱり地獄。位里は裸にされておちて行く。俊もさかさまになっておちて行くところを描きました。何故でしょうか、私たちは原爆を落としはしなかった。人を殺しもしなかった。私たちが地獄へ行くのは、戦争を食い止めることができなかったからです。核戦争で、原発で、地球上の命が亡びたら、助かる人は誰もいないのです。」

 とある。ここには際どい逆説が秘められている。本当に戦争を食い止めることができるのか。たとえできなくても、地獄に身を置いてでも核廃絶を、反戦を、生き始めねばならないという、意思と天真爛漫な姿がある。いやそれは「祈り」の姿とも言えよう。「キリスト教美術」が祈りを秘めた活動であるとすれば、ここでの丸木位里・俊夫妻の「祈り」は私たちの祈りでもある。

(以上の論考のため、奥田裕也、沖田康孝、杉原助、平良修、竹中正夫、田中文雄の諸氏に示唆をいただいた。)

佐喜眞美術館

原爆の図・丸木美術館

長崎原爆資料館 Google Arts & Culture

広島平和記念資料館 Google Arts & Culture