未完の恵み(2006 礼拝説教・フィリピ①)

2006.9.3、明治学院教会(43)、聖霊降臨節 ⑭

(単立明治学院教会 主任牧師1年目、牧会48年、健作さん73歳)

フィリピの信徒への手紙 1:7-11

1.パウロとフィリピの教会は大変に親密でした。

 しかし、パウロは自分とフィリピの教会の人々との関係を、直接的な人間的親しさだけで基礎付けることを避けています。

 別の要素、
 「キリストに拠る」繋がり、
 「神に召された者の」繋がり、
 「キリストに贖い取られた」繋がり、
 「福音の宣教のために召された」繋がり、
 という表現で言い表します。

2.「事柄」と「人柄」は密接に結びついています。

「事柄」優先はイデオロギー的になります。

「人柄」優先は義理人情的になります。

 主体的真理である宗教では、その関係が微妙です。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺の含みです。

3.パウロは今、牢獄に捕らえられています。

 人間の親密感からすれば、不幸です。

 しかし、7節では「監禁されている時も……共に恵みに与っている」と言います。

”わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。”(フィリピの信徒への手紙 1:7、新共同訳)

「恵み」は「多くの場合、資格のない人間を救おうとする神の愛を意味し」《人間を根底から新しくする力》をいいます。

 パウロは、獄中の彼を援助するフィリピの信徒たちの行動を「福音の宣教への参画(恵み)」と理解します。

4.9−11節で、パウロはフィリピの教会の人たちのために祈っています。大変に有名な祈りです。

「本当に重要なことが見分けられるように」と「キリストの日に備えて、清い者となるように」という祈りです。

”わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられrますように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。”(フィリピ 1:9-11、新共同訳)

 背景には、ギリシア的思惟(知識は客観的・不変)とヘブル的思惟(知識は神の意志を知ること・変化)との違いがあります。

 状況の中で「何が神の御心か」を絶えず探り、決断し、完成に向かって積み重ねる生き方が求められます。

5.「キリストの日」は後期ユダヤ教の黙示文学の言葉です。

「救いの完成の日」を意味します。

 この考え方は、私たちの日常は絶えず「未完結」だと捉え、私たちが経験している出来事は、その次に起きる出来事への備えだと理解します。

(例えば、車の事故を経験した時、先輩牧師の励ましの言葉「この経験はこれからの《備え》になるよ」)

6.「自然は繰り返すが、歴史は繰り返さない」。

 私たちの人生は、失敗やマイナスを含めて歴史を刻みます。

 完全性を問われれば耐えられません。

 しかし、「未完結」が「恵み」なのです。

 パウロは、このことを、先ほどの「本当に重要なことが見分けられるように」と「キリストの日に備えて、清い者となるように」という祈りで、表現しました。

 祈りで繋がっていく繋がり方が、教会というものの繋がり方だということを、「フィリピの信徒への手紙」は示しています。

7.私にとって、この聖書のテキストは、ある女性の受洗への決断と結びついて、深い思い出があります。

 彼女は人生の諸々のしがらみの中で、このテキストに出会って「未完の恵み」へと出立しました。



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