戦争とわたし

2005.7.14

戦争とわたし

現在、発表場所、媒体不明

(前神戸教会牧師。明治学院教会牧師、健作さん71歳)

 今年は、太平洋戦争が日本の敗戦で終わって60年が経った年です。
 沖縄では米軍が上陸して沖縄住民を巻き込んだ地上戦があり、広島と長崎に原爆が投下されて、おびただしい人々が戦争で亡くなった年でもあります。

 私は当時、東京世田谷の「松沢国民学校」の6年生で親元を離され「学童集団疎開」で新潟県の岡野町の西照寺で百人近い子供たちと戦時生活をしていました。
 人並みに「撃ちてし止まん」「欲しがりません勝つまでは」「鬼畜米英」「鉄出せ銅出せ力出せ」などという国の戦争標語を唱え、戦意高揚の歌を歌い、「お国のため、天皇陛下のために死に、お役に立つ子供に」との一通りの軍国主義・皇民化教育を受けました。

 食べるものが無くてお腹を空かせ、食料の確保に上級生は雑草や松の葉っぱまで集めたり、布団や衣服に発生した大量の「虱取り」を毎日行い、子供集団のなかのいじめや地元の町の子のボスのいじめも体験しました。しかし、沖縄、広島、長崎をはじめ戦禍の激しい地域の人の死の体験からいえば、わざわざ語り継ぐ程ではない穏やかなものだと思っています。

 むしろ、皆様にお話したいのは心の屈折の経験です。私の家は牧師の家庭でした。そこでは戦争礼賛の話は聞きませんでした。イエス様は病気や貧しくて苦しんでいる人のために来られた。権力を振るったヘロデの王様とは別な「救い主」として馬小屋にお生まれになったというクリスマスの劇を日曜学校の先生は熱心にさせてくれました。

 戦争祈願に行く神社の神様とは違う天地の造り主がおられるというお話も聞いていたので、学校から毎月氷川神社に行った時、頭を下げるのが苦痛でした。でも勇ましく「参拝拒否」などはとてもできませんでした。いつの間にかそれはわたしの心の深いところで子供ながら挫折の経験として澱んでいきました。本当には神様の心に従ってはいないという思いです。

 今から思うと、わたしが出会った学校の先生は、黙って耐えてはいましたが人間的なものを温めていた方たちが多かったようでした。逆に戦争中、戦争精神を鼓舞していた先生が「民主主義」や「平和」を口にするのを聞いて、知らない間に人間の嘘を嗅ぎ分ける感覚を身に付けたと思います。

 戦後、中学3年の時、牧師を目指す決心をしました。でもそれは大袈裟な使命感のためではありません。聖書の詩編の130編に「主よわたしは深い淵からあなたに呼ばわる。……あなたがもしもろもろの不義に目をとめるられるならば、主よ誰が立つことができましょうか。しかしあなたにはゆるしがあるので」とありますが、その「ゆるし」を信じての歩みでした。赦された徴として、戦後わたしにできる程度でできる限りの「反戦平和」の運動に加わってきました。

 わたしは、日本画家・丸木位里(いり)、洋画家・丸木俊さん夫妻が共同制作で残した、原爆の図、沖縄戦の図、南京虐殺の図、アウシュビッツの図、に触れて、ここまで戦争のことを自分に引きつけて生きた、その生き様に心を撃たれています。

 戦争を当然とする雰囲気が最近立込めてきました。聖書では「剣をとるものは皆剣で滅びる」と言われています。戦争のことを自分のこととして、もう一度真剣に考えてみませんか。


原爆の図・丸木美術館

長崎原爆資料館 Google Arts & Culture

広島平和記念資料館 Google Arts & Culture


(サイト記)表記「私」「わたし」を統一せず、原文のままにしました。挫折の告白から意識的に表記を変え、タイトル表記をお決めになった、と解釈しました。