風よ、吹き来たれ《枯れた骨の谷・エゼキエル 37:1-14》(1997 礼拝説教・週報・ペンテコステ)

1997.5.18、神戸教会
聖霊降臨節第1主日(ペンテコステ)礼拝週報

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)

エゼキエル書 37:1-14、新共同訳見出「枯れた骨の復活」


 旧約聖書の民族イスラエルにとって、紀元前587年のユダ王国の滅亡は、歴史的衝撃だけではなくて、民族の信仰の存亡に関わる出来事であった。

 何故、神は自分たちを見捨てられたのか?

 この問いに、従来自明だった”宗教の在り方の根本”についての反省を迫られた。

 そこを通り抜けて再生ができたのは、エレミヤ、エゼキエルなど、バビロン捕囚期を徹底して内省的にくぐり抜けた預言者の思想的営みの深さによるものであったろう。

 その転換の頂点に立つといってよいのが、エゼキエル書37章1〜14節「枯れた骨の谷」の寓意的な”幻”の記述である。


 神は預言者を谷に導く。

”主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。”(エゼキエル 37:1、新共同訳)

 その谷は”枯れた骨”で満ちている。

 預言者エゼキエルは、骨の数と乾いた状態に衝撃を受ける。

 神は預言者にこの古い骨が再び生き返るかどうかを問う。

 枯れた骨の現状認識ではなく、信仰を問う。

”主なる神よ、あなたのみがご存知です。”(エゼキエル 37:3)

 とは、預言者の信仰の告白であった。

 現状の暗黒、窮地、絶望、諦念、破滅の認識があって、救いがあるのではない。

 ここのところは注視すべき聖書のメッセージである。

”『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。”(エゼキエル 37:11)

 これは、現状認識ではなく、信仰の応答に含まれる。

”そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聴け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。”(エゼキエル 37:4-5)

 という神の言葉がまず存在する。

 それは、土の塵に向かって息が吹き込まれ、土(アダマ)は人間(アダム)になったという、創世記2章7節と重ね合わされる。

 霊は常に新しい創造である。

”「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」”(エゼキエル 37:9)


 預言者エゼキエルがこの”幻”を見たのは、捕囚の民がこの滅亡を神の審判として積極的に捉えた時であったが、新バビロニアが帝国支配を強化しつつあった時でもある。

 現実の厳しさに、逆に”いのち”の創造を見るとは、どういうことか?

 本来”いのち”とはそのようにしか存在しえないものなのであろう。

”神の裁きについての洞察は、神は完全に再創造を志向しているという、神ご自身の預言者への表明とのみ、呼応しあっている。”(C.R.サイツ)

 とは意義深い言葉である。

 神の裁きは、再創造なしにはありえない。

 枯れた骨の荒廃を恐れまい。


 新バビロニアの”平和”(支配)の如く、現世界はアメリカの”平和”(パックス・アメリカーナ)と、それに従う日本の”平和”で満ちている。

 一方で、”枯れた骨の谷”は、随所に見られる。

 汚職、不正、地震、沖縄、アイヌ、エイズ、従軍慰安婦、アルコール依存症、家庭内暴力等々。

 これらの骨は生き返るのか?

 主よ、あなたのみご存知です、と応えつつ生きたい。


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