「光あれ」《創世記 1:3-5》(1997 礼拝説教・週報)

1997.5.4、神戸教会
復活節第5主日礼拝週報
本テキストは前週 1997.4.27の礼拝説教要旨

(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)

”起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。”(イザヤ書 60:1-3、新共同訳)


「光あれ」岩井健作
創世記 1:3-5、イザヤ書 60:1-3


 苦難の中で良い作品が生まれる、とは芸術や文学にはよくあることだ。

 そして、信仰の告白としての聖書の文書も、その例外ではない。

 旧約聖書・創世記の天地創造の物語(1章1節〜2章4節a)も、イスラエル民族のバビロン捕囚期の祭司集団の作品だという。

 彼らは、この物語を書き、苦難を通して、信仰の捉え直しを実施した。

 手にしていた古代諸民族の創造神話を素材に、その物語の再構築の中に、自らの信仰的主張を盛り込んだ。

”神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。”(創世記 1:3-5、新共同訳)

「神は言われた」(序文)

「光あれ」(命令)

「するとそのようになった」(報告)

「よしとされた」(承認)

 の文学構成は、秩序だったものであり、極めて神学的である。

 その中心的論点は、神の主権と支配である。

「神は創造された(バーラー)」と、動詞を神のわざ以外に用いない、注意深さがある。

 また、バビロニア神話の「光・大空・地と海・植物・光体・魚と鳥・陸の動物・人間」の8つを、そのまま用いて、話の一般性を持たせながら、それも6日間の創造に割り当てたため、3日目と6日目は二つの創造になるなど、苦心の跡が見られる。

 同じ文学類型を保ちながら「神の言葉による創造」を鮮明に打ち出している。


 さて、「光あれ」は光の創造であるが、これは、光と闇を分ける、という内容になっている。

「分ける」とは、混沌に秩序が与えられること、闇を闇として、その意味を了解することを含んでいる。


 旧約聖書では、あまりにも暗い歴史の時代に、その闇を”逆説的”に捉えている箇所がある。


 アモス5章18節。

”主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。”(アモス書 5:18、新共同訳)

 貧しい人を虐げて、主の日(救いの日)を待ち望む人々への痛烈な批判である。


 ヨブ記3章4節。

”その日(自分の生まれた日)は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな。”(ヨブ記 3:4、新共同訳)

 これらは闇を通して光を見ている。


 詩編139編11−12節。

”「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わることがない。”(詩編 139:11-12)

 闇を闇として意味了解なものとする。

 そこに「光あれ」は、闇を「待つ時」「耐える時」「望む時」「うずくまる時」として位置づける。


 パスカル研究家・田辺保氏は『光は暗きに照る』(日本基督教団出版局 1978)の中で語っている。

”人の世は暗い……が、希望がないわけではない。たしかに、あるのだ、み言葉を慕うあつい思いのうちに”(田辺保『光は暗きに照る』日本基督教団出版局 1978)


「光あれ」の言葉を力あらしめて生きたい。



《なお本テキストは前週の説教要旨》
《この日の説教》
 創世記 1:6-8、詩編 139:1-12、「神の超越」岩井健作


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