1997.4.30 頌栄短期大学チャペル、チャペル月報 1997.5 所収
(健作さん63歳)
ルカ 18:15-17

保育者を養成する「頌栄」にとって、新約聖書のルカ18:15-17は、座標軸ともなる重要なテキストであろう。
イエスは「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と告げる。
「神の国」は死んだら行くであろういわゆる「天国」ではない。「神の支配」という意味で、神のみこころが行われるところ、もっと平たく言えば、神の愛と恵みを受けて生きる人々の状態である。
子どものように受け入れるとは、大人になってしまった者は難しいということだ。だからこのテキストの言わんとするところは「大人は神様から遠いぞ」ということに他ならない。
保育者にとって大事なことは、子どもの友達にしてもらえることだ(子どもの友達になることではない、その逆のこと)。

保育室での会話。
「先生は大人?」
「そう大人よ」
「どうしてお仕事をしないの?」
「ウゥーン、先生は幼稚園がお仕事なんだけど」
「でも遊んでばかりいるやん」
こんな具合に子どもの友達になれれば、なかなかの保育者である。

子どもは意識しないで、母の愛の中にある。もっと言えば、神の愛の中を生きる。愛の関係存在そのものである。それに比べると、大人は、自意識、自己完結性、tまり己が功(いさおし)に生きる。聖書はこのことを、神との関係に生きないこと、つまり「罪」という。
今日のテキスト15節には、イエスのもとに人々が幼な子を連れて来ると、「弟子たちはこれを見て叱った」とある。大人の分別だ。「イエスさまはお仕事で忙しいのだぞ」と言ったのかもしれない。その分別をイエスはたしなめている(マルコ福音書には「憤った」とある)。だが、イエスは子どもを呼び寄せて祝福した。
さて、聖書のこの箇所をそのまま絵にしたのが、頌栄のこの講堂の「イエスと幼な子」の絵だ。注意深く見て欲しい。弟子たちは描かれていない。このことは、大人は神から遠いと暗に語っている。もちろん子どもは、わがままで、反抗期に反抗もするし、大人の保護を必要とする。でも子どもの存在は神の国のしるしだ。
子どもの存在の永遠性は、子どもの死において最も深く示されている。この絵にまつわるエピソードを話そう。忠君は四歳で疫痢という病気で亡くなった。私はその葬儀の永遠を示唆する明るさを今も忘れない。50年余り経って、忠君の父親・田中忠雄画伯が、私に「頌栄から依頼された絵のテーマをどうしようか」と話があった。即座に「忠君が出て来る絵がいい」と言ったら、「決まった。ルカ18章にしよう」と言ってこの絵が描かれた。思い出の話である。

