1975年3月16日 岩国教会週報「先週説教より」
(岩国教会牧師10年、健作さん41歳)
「わたしは、この世に対して公然と語ってきた。…わたしが彼らに語ったことは、それを聞いた人々に尋ねるがよい…」(ヨハネ 18:19-21)
この箇所はイエスが逮捕された後、大祭司の尋問を受ける場面である。大祭司は「弟子たちのことやイエスの教えのこと」を尋ねる。そもそも「教え」だけを取り出して何の意味があろうか。十字架の死に極まるイエスの生と死の全体に心を開いて触れようとしない問いに対して、イエスは問いそのものを投げ返してしまっている。
ヨハネの「この世」という語には二つの面が含まれている。一方は「神に敵対する人間」を表し、他方に「神の愛の対象」を示している。両者は矛盾しているようで、なお聖書が示す人間の姿である。この箇所で言えば、大祭司に代表される部分は、自分の心は閉ざしておいて他者に抱け尋問するあり方を、それ故に頑なな世の一面を示しているし、聞いた人々(21節)は、自分の心を開くあり方を、それ故に(神と)関係をもつあり方を示している。イエスは、隠れて静かに語らない(20節)。予め通じあうものの間のやりとりといった語らいはしない。公然と語った。頑なな一面と聞く一面とが截然と分かたれる形で公然と語られる。私たちは自分の頑なな一面に訣別し、変わり得る部分(たとえそれが「土の器」のように脆くとも)をしっかりと見つめて生き始めるとき、福音に照らされたものとなる。
(岩井健作)
(追記として『土の器』阪田寛夫氏の小説)
”しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。”(コリント第2 4:7)
(報告欄より)
岩国キリスト者平和の会。18日(火)午後7時半、於岩国教会。田口牧師(岩国東教会)送別会。


