主よ、いつ、あなたに《マタイ 25:31-46》(1979 礼拝説教要旨・週報)

1979.11.11、神戸教会
説教要旨は11月18日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

マタイによる福音書 25:31-46、説教題「主よ、いつ、あなたに」

 信仰をどのようにして生活化するか、という必要から、イエスの生涯の主な出来事を軸とする教会暦が作られ、それを覚える聖書日課が組まれてきた。

 マタイ25章の今日の箇所は、この暦の終わり「終末主日」に関連して選ばれるテキストである。

 世の終わる時、言い換えれば、人の一生の決定的意味が問われる時、聖書は一体何が基準になるというのか。

 神は人をどの様に見給うのか。

 このことがここには記されている。

 そしてそれは愛のわざだという。

”人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。”(マタイによる福音書 25:31-36、口語訳)


 しかし、その基準に耐える人がいるのだろうか。

 イエスが死に極まる生を通して示された愛が、「報いを望まで人に与えよ、こは主の尊きみ旨ならずや」と讃美歌(536番)に歌われているように、基準であるとすれば厳密には耐えられない。

 だからこそ、福音主義教会の信仰は「信仰義認」を基盤とする。

「人が義とされるのは”律法”(倫理的実践の成果)によるのではなく(ただ神の福音の《恵み》を信じる)”信仰”による」と。

 けれども、それすらもが観念的にならないように、恵みへの応答としての愛が問題なのだ、とこのテキストは言っているのかもしれない。


 しかし、それよりも、この地上に愛を必要とする《いと小さき者の一人》が現実にあり、虚しさを知りつつもひたむきな愛が引き出されている事実を、テキストは語ってはいないだろうか。

”そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。”(マタイによる福音書 25:37-40、口語訳)


 自ら、空腹、宿無し、身ぐるみ剥がれ、病気、獄という経験のどこかに繋がるような体験を持てばこそ、心動かされる者がその傍(かたわら)にいる。

 テキスト前半(マタイ 25:31-40節)は後半(41-46節)に比べると、人の息遣い、鋭敏な神経、傷をいやす温かさ、澄んだ目、よく動く手足が感じられる。

 そこには救いのあること、あのイエスがいまし給うことが信じられている。

 後半(41-46節)では《悲しむ人々》は底に沈んでしまって、人は上っ面を素通りしていく。


 なぜ愛のわざが最後に問題になるのか。

 それは、救いを信じていることの最終表現形態が愛に他ならないからだ。

 愛のわざはこの世の価値基準とはいつもぶつかる。

 それに抗して生きることになるだろう。

 日一日の積み重ねは、それがどんなに小さなことでも祝福されるし、自分で気づいていない故にこそ(誇りとなってはいけない)祝福され、残るものとされる。

 ごまかしは効かない。

 だから、ひたすら、挫けないで励む者でありたい。

(1979年11月11日 礼拝説教要旨 岩井健作)


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