1979.11.25、神戸教会
説教要旨は12月2日の週報に掲載
(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)
マタイによる福音書 25:1-13、説教題「たとえ眠っている時にも」
「十人の乙女」のたとえ話も、教会暦では「終末主日」に読まれてきた聖書日課である。代々の教会はここから何を聞き取ってきたのであろうか。
マタイ福音書の意図に沿って考えれば、十人とも花嫁の随伴者としての役目を与えられている。とすれば、共に招きにあずかっている者の問題、つまり信仰者である者が、最後まで招きに応えて信仰を全うするためには何が必要なのかを考えさせ、終末の遅延という当時の信仰上の問題に注意を促しているものであろう。
5節に注目したい。
”花嫁の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。”(マタイによる福音書 25:5、口語訳)
ランプ持参で、花婿を迎える備えをしていることを、信仰における各人の主体的契機と理解したとしたらどうだろうか。
招きに応じて決断をするところに信仰があるとするならば、信仰者を自覚する者は皆ランプ持参の乙女ということになる。
しかし、信仰における主体的側面というものは、ペトロが決してイエスを裏切らないと言いつつ、裏切ってしまったように、不確かなものだ。
醒めて意志的なあり方も眠る時があるという捉え方が光る。
信仰とは、神と人との関係の一面を表しているが、関係において、自分(人)の側が「眠っている時でも」、関係そのものの(神の側の)確かさに愚直なまでに心を置くことができたならば、それは主観的な信・不信を超えている。
関根正雄氏(旧約学者)に『キリストの義』という文章がある(関根正雄著作集 第1巻、1979年10月、p.196-197)。
その中にこんな文章がある。
”色々信仰上の経験もかさね、色々な恵みをいただいてきたのであるが、さて本当に頼りになるものというと、どうも自分の側には ー 信仰をも含めて ー 何もない、ということがつきつめた所、実感なのである。そしてキリストの義、宗教改革者のいう「他なる義」Justitia aliena ということに思いおよんで、本当にゴツンと確かなものにぶつかり、本当に安心するのである。人生の最後の意味をそこに見出すのである。”(『関根正雄著作集 第1巻』、新地書房 1979年10月10日発行、p.197)
(サイト記)関根正雄氏のテキストは、1962年6月発行の「預言と福音」誌(第138号)巻頭言として掲載されたものである。執筆時、関根氏49歳。著作集発行時、関根氏67歳。健作さんは著作集の発行直後に購入し、翌月この説教で引用している。
これは極めて古典的な表明ではあるが、「他なる」という言葉に心が引かれる。
そこには、私たちの主観性に繰り込まれないイエスの存在の重さがある。
そして、詩篇の「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてはならぬものを与えられる」(詩篇127)という言葉を思い起こす。
”あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてはならぬものを与えられるからである。”(詩篇127:2、口語訳)
我々は信仰を自分の実感で捉えがちだが、それを超えて主イエスへのゆだねを回復したい。