時を知る《ローマ 13:11-14》(1979 待降節・礼拝説教要旨・週報)

1979.12.2、待降節第一主日、神戸教会
説教要旨は12月9日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

ローマ人への手紙 13:11-14、説教題「時を知る」

”あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。”(ローマ人への手紙 13:11、口語訳)


 歴史的に見て、教会がアドヴェント(待降節)という暦の節を教会生活の中に取り入れたのは、洗礼の準備にしろ、「終末」についての信仰を考えるにしろ、初心に返って、決断的な生き方をもう一度整えるためであったと思われる。

 その意味で、ローマの信徒への手紙 13章11-14節は、古来待降節の主日のテキストに選ばれている。


 聖書の学び方には色々な方法がある。

 歴史研究的にまた文学的関心で読むのも一つである。旧約・新約全66巻を救済史観で読み通すのもまた一つであろう。

 聖書の信仰の多様性を、教会暦という暦に従い、生活的に学んでいくという方法は、長年の教会の知恵でもあったと思われる。


 さて、私は昨日、ある葬儀に参列して、”カイロス”(時期、チャンス等、ある一点の時を表すギリシア語)と”クロノス”(時計で測れる時間を表す言葉)との交叉を感じた。

 その人の生涯全体が自分に何かを問いかけ、心を動かし、自分もそのように生きたいという決断的な時(カイロス)を一方で感じつつ、他方葬儀の進行に身を委ねている自分の日常性を重ねて持っているという思いである。

 パウロは「ローマ人への手紙 12−13章」で倫理を語り、その最後で「あなたがたは”カイロス”を知っているのだから、この事(戒め)に励め」と言っている。


”あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。”(ローマ人への手紙 13:11、口語訳)


 キリスト者の日常の倫理は、精を出しても、本当にこれで良いのか、という気持ちを拭い去ることはできない。

 もし、その徒労に等しい行為が支えられるとしたら、そのような”クロノス”の中に身を置きながらも、自分にとって、決定的な意味を持つような”カイロス”の経験というものから自分を見直していくことが出来るからではないだろうか。

 聖書は、この”カイロス”を「時は満ちた、神の国は近づいた」(マルコ 1:15)、「わたしの時(十字架)が近づいた」(マタイ 26:18)、「彼(イエス)は……定められた時になされた証しに他ならない」(Ⅰテモテ 2:6)と、イエスにおいて神がなされた出来事と、「今は恵みの時…」(Ⅱコリント 6:2)のように、それに対する人の応答や決断の時として用いる。

”神はこう言われる、「わたしは恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。”(コリント人への第二の手紙 6:2、口語訳)

 このような「時を知る」とき、”クロノス”の中の営みが、たとえ空しくとも、収斂していく一点をもつ。

 ”クロノス”の経過の中で、何とかなるという生き方はすまいと思う。

 神の”カイロス”に身の審きを任せつつ歩みたい。

「夜はふけ、日が近づいている」(ローマ 13:12)ことを信じつつ。

(1979年12月2日 説教要旨 岩井健作)


”あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。”(ローマ人への手紙 13:11-14、口語訳)


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