兄弟(1974)

1974年6月30日 岩国教会週報
「先週説教より」マタイ7:1-5

(岩国教会牧師9年目、健作さん40歳)

兄弟の目からちりを取りのけることができるであろう。(マタイ6:5)

 私たちはこの言葉に驚きを覚えないでしょうか。確かに、兄弟の目にちりを見つけることはできます。それを指摘することもできます。しかし、手を出して取りのけようとすると、兄弟だったはずの親しい間柄に、お互いの自我がチカチカし始めます。人間には、兄弟を見るときでさえ、自分に対する見方のほうが他人に対する見方よりも常に甘く緩やかになる傾向があるのではないでしょうか。そのような自分を省みることなく、審判者のような役割を演じることには、互いに耐えられないものがあります。この悪循環を断ち切らない限り、ちりを取りのぞくことは出来ません。イエスは「まず自分の目から梁(はり)を取りのけるがよい」(5節)と言います。「梁」それは建築で言えば、建物を支える「要」となるものです。「頼み(梁、要)」としている自分をまず捨てることから手をつけなければなりません。もっと突っ込んで言えば、自分で自分を捨てるということは出来ませんから、自分の目の中の梁とは、神に対して負う、罪の負債の大きさの自覚でありましょう(マタイ18:23以下)。「兄弟に対する批判的奉仕は…彼よりも大きな負債を背負って出会うことができる時にだけ、はじめて始めることができる」と言われます(アイヒホルツ)。負債を負ったまま、なお兄弟に出会うというのは、一見矛盾のようです。しかし、負い目を負いつつ前に歩み出すことこそ、イエスに従う者の道でありましょう。道理や建前、正論を語るだけでは決して出会うことのできない関係があります。自らの負債を自覚しつつ、なお批判的に、そして冒険的に関わろうとする時に出会うのが「兄弟」というものです。

(1974年6月23日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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