自由への召し(1974)

1974年4月21日 岩国教会週報
「先週(イースター)説教より」マルコ16:1-8

(岩国教会牧師9年目、健作さん40歳)

イエスはよみがえって、ここにはおられない(マルコ16:6)

 イエスに親しかった婦人たちが、週の初めの日、早朝にイエスの墓を訪ねることから行動を開始したというのは象徴的である。彼女たちは「十字架につけられたイエス」を捜したが、そこで聞いたのは「イエスはよみがえって、ここにはおられない」(マルコ16:6)というメッセージであった。私たちも、彼女たちと同様、死せるイエスの姿を求めてはいないだろうか。「イエスとはこういう方だ」「十字架を負うとはこういうことだ」と、自分なりのイエス像を求め、それを追い求めて歩み始めようとする。それが求道というものでもあろう。だが、私たちは気づかないうちに、自分が作り上げた「自分なりのイエス像」を持ってしまう。その思い込みを打ち砕くのが「空虚な墓」である。「これこそ本物だ」という何かを握っていなければ不安でいられない、そうした不自由な私たちの根本が、ここで鋭く問われる。十字架につけられ、苦悩を負い、愛を生きられたイエスは「ここにはおられない」と。傷の癒やしを求めてイエスを尋ねた者は、「そこでお会いできるであろう」(マルコ16:7)と再び生活の場、傷を負った場(私は7節の”ガリラヤ”をそのように理解したい)を示される。イエスはそこにおられると。これは突き返しではない。傷を負い、不自由である者が「傷は死によって医される」真理へと召される。この召しは、自由への召しである。

(1974年4月14日 復活日 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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