祝福の現実化・抽象化(2012 説教)

2012.3.2(Fri)「夕べの礼拝」17:00-17:30、社会福祉法人 日本医療伝道会

(明治学院教会牧師、健作さん78歳)

「イエスに触れていただく(祝福)ために人々が子供たちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた」 マルコ10:13-16

 今日の礼拝をお引き受けしてから、風邪の後遺症で声帯を傷めてしまいました。耳鼻科のお医師さんは「声を使う仕事であっても、私はあなたの声帯を守る立場だから、回復までは声を使うな」と申し上げる以外にない、とのこと。そこで止むをえません。原稿を書いてきましたので、みなさんに見ていただきながら、大野先生に朗読していただく手段で、御役目を果たします。

 今日のお話は、マルコ福音書の「イエスが子供を祝福する」という箇所です。

 マタイ19:13-15,ルカ18:15-17が福音書では同じお話の並行箇所です。それも読んでいただきました。一つだけ目立ったマルコと他の福音書と違うところがあります。イエスに祝福してもらうために、親たちが子供をイエスのもとに連れてきたのですが、弟子たちがその人たちを「叱った」というところです。マルコでは「しかし、イエスはこれを見て憤り弟子たちに言われた」とあります。マタイは「イエスは言われた」ルカも「子たちを呼び寄せて言われた」となっています。マルコには元来の伝承にあったであろう「イエス……は憤って」が入っています。しかし、マタイも、ルカも、マルコを下敷きにして物語を書いているのですが、共に、この「憤り」を省いてしまっています。おそらく、マタイやルカは年代が後になるにつれて、イエスを崇敬する信仰が強くなり、「イエス様が憤ったのでは具合が悪い」ということで、善意かも知れませんが省いたのでしょう。専門用語でいうと「キリスト論的」性格が強くなったと言います。

 伝承では、当時の大人たち、社会の通念が、幼児を軽んじ、蔑視していた状況が映し出されています。そんな、子供を軽んじる考えに染まってしまっている弟子たちに対してイエスは憤ったのです。もともとの物語はイエスの「憤り」と「子供への祝福」という二極の焦点があったお話なのです。それを、マタイ、ルカは「子供への祝福」ということだけを伝える、一極のお話にしてしまいました。

 確かに「子供の祝福」だけを取り上げても、大事な物語です。幼子は一人一人尊い人格であって、かけがえのない「命」だということは、聖書の中にはここだけではなくても出てきます。また、親にすべての信頼を寄せている幼子の存在は、神に全幅の信頼をよせて生きる、「神の国」の在り方を象徴していて、その象徴たる幼子を大事にしなければならない、ということも読みとれます。しかし、幼子は、大人に「神の国」の救いを伝える役目を負っただけの存在ではないのです。幼子そのものが祝福されないような社会だったら、どこに具体的に「神の救い」はあるのか、現に子供を軽んじる大人の分別を是認していて「神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)と言ったって、それは言葉だけではないか。そんな意味で、子どもを退けた弟子たちに「憤る」イエスが伝えられているのです。だから、イエスの「憤り」は幼子への祝福を現実に生きたものとしているのです。ところが、「憤り」を取ってしまうと、「祝福」が抽象的なものになってしまいます。

 今、こどもの現実を考えると「児童の権利に関する条約」を持ち出したらどんなにその権利が失われているでしょうか。児童虐待、児童売買、武力紛争地域の児童、飢餓、貧富格差下の教育、そしてもっとも深刻な放射線被ばく。この間、横浜で行われた「脱原発世界会議 2002 YOKOHAMA」の開会式(2012.1.14)で識者に交じって、福島の児童・富塚悠吏君が

国の偉い人に聞きたい。大切なのは僕たち子供の命ですか。それともお金ですか

 と叫んでいました。そこには、原子力平和利用を推進して、国の経済を成り立たせてきて、ついに始末のつかない放射能汚染を招いてしまった、日本の大方の大人たちへの批判をこめています。国の偉い人達は勿論ですが、大人は責任があります。

 私は、それを聴きながら、イエス様の「憤り」は、弟子たちと同じように今の大人の、私たちにも向けられていることを悟りました。

 群馬県に社会福祉法人・新生会というキリスト教(聖公会)の事業があります。そこの理事長・原慶子さんは、厚生労働省によくかみついています。市場原理主義にからめとられた福祉への批判です。この方は現場では細やかな祝福を手掛けながら、イエスの「憤り」を継承している方だなと思いました。医療の領域にも沢山の現実への「憤り」があると思います。そこを大切にして、イエス様の後に続いて下さい。

(サイト記)東日本大震災から1年、「金か命か」(”あれかこれか”の言語化)のモチーフ、現時点で、これが最初のテキストかと思われます(この実存的逆説的問いの立て方はブレない健作さんの真骨頂)が違っていたら修正します。

リレーメッセージ「3・11」以後(6)(2012 反核・脱原発)

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