1970年11月29日 待降節(アドヴェント)礼拝
岩国教会週報「当日説教より」ヤコブ5:7-11
(岩国教会牧師5年目、健作さん37歳)
ここ瀬戸内ではまだ木枯が吹き荒れた気配はない。やがて移りゆく季節に埋もれる落葉樹の葉が、時の流れを一瞬示すように音もなく枝を離れると、また静けさがもどる。今年も待降節が来た。教会暦では一年はこの日から始まっている。新しい暦(こよみ)は、待つことから始まり、備えから始まる。それは、すでに終わった季節への訣別から始まる。順序としては、古きものへの訣別から始まるのだが、事柄としては来臨(パルーシア “παρουσία”)から始まる。これが待降節の構造である。”パルーシア”(来臨)の語源は「皇帝・王・総督が街や州に到着すること」を表す語彙である。王の到着は、準備と緊張を促した。それは人民への新たな苦しみではあっただろう。だが、地上の王にではなく、救い主(キリスト)としてのイエスの来臨に結びつけたところに新約聖書の思想がある。客を迎えんとする時、思い切って模様替えをして家の中を片付けるように、今まであった過去のものとの訣別は、新しいものを迎えんとする中で起こりうる。それにしても、われわれはもはや過ぎ去った些細なことに、いかにこだわり、繰言を並べ、自己弁護することが多いことか。そのような自分(それは弱き自分ではあるが、同時に自己義認の自分でもある)には耐えようではないか。”耐える”(マクロス・テュモス “μάκρος θυμός”)は「”長い”・”気性・感情”」である。そして、それは新しい備えでもある。「見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている」(ヤコブ5:8)。
(1970年11月29日 岩国教会説教「地の尊い実り」岩井健作)


